狂おしき三角マークの絶品映画

      2017/11/01

三角マークとは、東映映画のことです。

昭和という激動の時代。
戦後、娯楽の王者として人々を癒したのは「映画」でした。
魑魅魍魎とした映画の世界で「時代劇は東映」を看板に業界一位に駆け上ったのが「東映」でした。
東映の全盛期はチャンバラです。その後に登場した任侠映画はチャンバラの変種でした。

全盛期には日本映画の興行収入の半分近くを東映が担っていたというから人気の凄さがわかります。

いま、その頃の古いチャンバラが続々とDVDリリースされていて、親にプレゼントする人が多いそうです。
プレゼントされた人は大喜び。Amazonのコメントを賑わしています。

もっとも東映らしいエピソードをひとつ。
重役俳優のひとり市川右太衛門人気シリーズ「旗本退屈男」のクライマックス場面を撮影中のこと。

旗本退屈男に扮する市川右太衛門が、洞窟で悪者と戦っている場面です。

洞窟の奥に入っていき、出てきたら衣装が変わっているのを見た山城新伍が、間違いかと思い「先生、それはおかしいのではと?」訊いたところ、「これでいいんだ。ファンはこれを喜ぶんだ」と豪快に笑い飛ばしたといいます。
洞窟でチャンチャンバラバラの真っ最中。着替えもないし、シチエーションとしてもあり得ない。
それを全く気にしない荒唐無稽さは明朗時代劇の領域を完全突破して底抜けの楽しさです。

「あの人は役者だね。あの豪快さは誰も真似ができない」と丹波哲郎は畏敬の念を抱いていたそうです。
観客を喜ばせるためならなんでもありの大らかさが東映の持ち味だったのでしょう。

敗戦から国民が立ち上がり、テレビもなかった時代に映画は娯楽の王者でした。
GHQの占領下では時代劇も容易に作れず往年の時代劇スターも慣れない現代劇でお茶を濁しました
それでも劇場の扉が閉まらないほど観客は娯楽に飢えていたのです。
新興の東映は娯楽の王者にふさわしい映画づくりをしました。
一家全員で見ることができる勧善懲悪、分かりやすく明朗な娯楽映画づくりに情熱を注ぎ大衆の心をつかんだのです。

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映画は六社ありましたが、東映時代劇七人衆、片岡千恵蔵市川右太衛門大友柳太朗中村錦之助東千代之介大川橋蔵美空ひばりが揃うと、「時代劇は東映」を看板に快進撃。東映は後発ながら、首位に躍り出たのです。

一秒いくらの世界で、東映京都撮影所では、任侠映画時代も含めて、目の回るような忙しさから、歩いている人はなく、全員が走っていたといいます。

 

東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンである。
3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、太泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。
 
社内での正式な呼び名は「荒磯に波」である。撮影場所は千葉県銚子市犬吠埼とされている。
1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった。
 
現在使われているものは4代目になり、CG加工された画面が現れた後、一転して波飛沫が岩にかかるおなじみのシーンに変わる。そこにはすでにロゴマークがあり、かつてのように岩の合間から飛びだしてこない。(ウィキペディアより)
 

 戦後日本には、六社の映画会社があり、それぞれに特長あるプログラムピクチャーを製作しましたが、新東宝、大映、日活が倒産、撤退したことで、自社製作・配給の仕組みは崩壊していきました。

まず六社の特長を簡単に見ていきましょう。

 

松竹  

 監督に木下恵介小津安二郎、俳優に田中絹代、高峰三枝子、上原謙(加山雄三の父)、佐野周二(関口宏の父)佐田啓二(中井貴一の父)などを擁し、女性向け作品、家庭的な作風の映画を得意としてヒット作を飛ばしたが、戦後5社(新東宝倒産後)態勢になるとトップに君臨していたが東映に首位を奪われた後、業績は業界最下位に甘んじた。
 

時代劇は、戦前からの大スターであり剣豪スターナンバーワンの座を揺るがないものにしていた阪東妻三郎(田村正和の父)を筆頭に高田浩吉近衛十四郎松方弘樹の父)などを擁したが、阪東妻三郎が他界後は奮わず1960年代には時代劇の製作を中止。
主要な時代劇俳優の大半は東映に移籍した。
やがて寅さんシリーズが看板になった。








 

大映  

1927年(昭和2年)に日活大将軍撮影所から時代劇部が太秦に移転し日活太秦撮影所として開業したのが始まり。
 
東映京都撮影所と大映京都撮影所を結ぶ商店街は大映通りと呼ばれて現存している。
時代劇の隆盛期は両方の俳優たちが待ち時間に衣装のまま歩いていたことで有名。京都に行かれたら是非歩いて見て下さい。

 

大映は戦前戦後にかけて「時代劇六大スタア」と呼ばれた長谷川一夫を中心に時代劇プラス女性映画の印象が強く、京マチ子山本富士子若尾文子など女優主演の映画が目立った。セットでは大道具、小道具の見えないところにまでこだわりコストのかかった作品は有名。丁寧であり、裏返せば無駄の多いものだった。


市川雷蔵勝新太郎が育ったが、両者に続くスターは輩出できなかったため、雷蔵が逝去して倒産。
現在は、角川書店が権利継承。

 

 

東映  

戦後、東横映画として始まる。
東映製作、大映配給が続いたが、東映時代劇
七人衆である片岡千恵蔵市川右太衛門大友柳太朗中村錦之助東千代之介大川橋蔵美空ひばり、が揃うと、「時代劇は東映」を看板に、全映画興行収入の半分は東映が担うという全盛時代が続いた。

 

さらに新東宝、松竹の受け皿となり、主な時代劇俳優の大半を擁した。

1960年代半ばから映画の斜陽化が顕著になると共に時代劇が斜陽期を迎えると時代劇で培ったスターシステムと撮影所システムを発揮して任侠映画ブームで他社を圧倒する一方テレビ時代劇で力を発揮した。
 
またアニメにも早くから力を入れ「白蛇伝」「安寿と厨子王丸」名作を輩出している。
 
 

新東宝 

1946年から1948年にかけて三次にわたり、東宝労働争議が起こる。

今井正監督山本薩夫監督など日本共産党員が戦争中から在籍していたことで、労働運動は、従業員の九割、5600名の組合員を持つ巨大勢力となり会社と対決。
大規模な争議となり、米軍まで出動。空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」という言葉が残った大事件であった。


ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した
大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の10大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。
反左翼の
渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。

1947年
(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立。新東宝製作、東宝配給の体制も一時的にはあったものの独自に配給体制を確立した。
その後主要なスターの流出が続きスター不足から苦戦を強いられる。
 

社運を賭けた大作、日露戦争を題材にした「明治天皇と日露大戦争」は起死回生、空前の大ヒットとなり危機的状況を乗り越えるが1961年倒産。
東宝、国際放映が権利継承した。

 

 

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東宝

労働争議の後遺症で、製作再開のめどが立たず巨額赤字を抱え、長く苦悩する。争議後、山本嘉次郎成瀬巳喜男黒澤明谷口千吉監督らは、東宝で映画製作ができないため、退社して「映画芸術協会」を設立。新東宝、大映松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。

 

前述したようにストに反対した十大スターが「十人の旗の会」を結成、大スター、大監督がごっそり辞めたことで、止むを得ず入社したての三船敏郎ら若手俳優がすぐに主役として抜擢、若い監督も活躍の場が用意された。

 

 
1950年代になると日本映画の黄金時代を迎え、『七人の侍』や『隠し砦の三悪人』『用心棒』などの黒澤明作品、『ゴジラ』や『モスラ』などの円谷英二による特撮作品、森繁久弥クレイジーキャッツの喜劇シリーズ、加山雄三の若大将シリーズなど諸作品によって隆盛を極めた。健康的で政治色のない作品が特長。50年半ばから60年半ばまでは、一番後発の東映、日活が隆盛を極めるが、映画が斜陽期に入ると健全性が功を奏し、東映を抜き、引き離なすことになる。
 



 日活  

1912年(明治45年)3月、国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに横田商会吉沢商店福宝堂エム・パテー商会の国産活動写真4商社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立(初代社長は後藤猛太郎)。
 
トーキーからの大スターを擁し、名作時代劇を次々に送り出していたが、1942年(昭和17年)には戦時企業統合により、業績の良かった配給部門だけが切り離され、製作部門は大映(大日本映画製作株式会社)に吸収、映画製作から一旦撤退する。
 
1945年(昭和20年)には大映の興行権を継承し、「日活株式会社」に社名変更。1954年(昭和29年)に映画製作を再開。
 
1954年、製作再開を果たしたが配給網が確立できていない上、スターがいないために、他社から引き抜いたスターと新国劇の時代劇で凌いでいたが、製作と配給の両面で苦戦した。

新人として獲得した石原裕次郎小林旭赤木圭一郎吉永小百合など、若い俳優を主役に据えたアクション映画青春映画で、東映に続く業界2位に躍進する
 

 
時代劇は東映、現代劇は日活で人気を二分する。
その後映画の斜陽期に入ると、東映の後追いで任侠映画に転じたが奮わず、大半のスターは退社し、1971年(昭和46年)に「ロマンポルノ」と銘打って成人映画専門に着手するが、ビデオの普及に伴うAVビデオに押され失速する。「にっかつ」と社名を変更。
 
 
それぞれに特長がありますが、なかでも際立っているのは、トップの強烈な指揮権の元、それぞれの時代に合わせて、収益にこだわり、勧善懲悪の明朗な時代劇からアクの強い不良性感度の強い作品群など、もっとも製作カラーの鮮明な映画会社であり続けている”三角マーク”の東映でしょう。
 
参考文献 ウィキペディア)
 
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