ないしょシネマ『空海』〜弘法大師空海御入定1150年記念作品

映画「空海」 ライフデザイン
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絶滅危惧映画愛護協会ないしょシネマ

映画「空海」は1984年に制作された巨人弘法大師空海(774年- 835年〉の生涯を描く正統派空海映画です。

弘法大師空海御入定1150年記念として全真言宗青年連盟映画製作本部が東映と提携して製作した作品。入定とは、現世に肉体を留めたまま瞑想を続けることをいいます。日々欠かすことなく大師に供する朝食と昼食が運ばれ、まさに大師は生きて祈りを続けています。

当初「空海7つの冒険」的な作品にする案もあったらしいようですが、真言宗の目が光っているので勝手な解釈は許さない。クライマックスには真言宗の僧侶が大挙出演、ツトムヤマシタの音楽をバックに経を唱える場面は感動的です。

最澄と空海

空海(密教)となると最澄との決裂、その原因である「理趣経」のことは外せないので愛欲をどのように表現するかがポイントになる。乞食僧になり修行する最中、突然「おれに生きる価値はあるのかッ!」と口走りながら山から川にダイビングすることで愛欲への関心が描かれるのは面白い。いきものとして生きることと愛欲はひとつなのだ。

空海・予告編

空海 予告篇

キャスト

ここでイメージしやすくなるようにキャストを紹介しときます。(出典:Wikipedia)

真言宗は50年ごとに一大布教活動を展開しており、本作品もその一環です。全青連が映画公開前に前売り券200万枚を完売して総額で20億円以上をベースに24億円ともいわれ総製作費には12億円の巨費が投じて完成させた。上映時間3時間の大作ですが、見所は満載、長く感じることはありません。壮大な中国ロケ、1億円かけて遣唐船を一隻丸ごと制作した。ただ誰でも楽しめるかというと観客を選びます。

  • 密教(仏教)に関心がない
  • 密教(仏教)に関心がある

以上のように大別されますが、密教(仏教)に関心がなくても、歴史上実在した男が無名からが天皇に行動を促すまでになる人生ドラマとしても楽しめます。哲学・思想・宗教の違いを認識できていないと難しく感じますが、ある程度認識していれば、楽しめます。三者の共通点は「自分や人間、社会についての本質を徹底的に考え抜き、その真理を追求すること」ですが、それぞれ行動の指針になります。結論に辿り着くまでの過程や、根拠の違いによって各分野を分けることが可能になります。哲学は徹底的に自分の頭で深耕しますが、主体が自分にありますが、宗教はメンターの教えに基づく行いをすることで従属的です。

映画「空海」は放浪しながら自分の哲学を深めて、やがて思想に転じ、遣唐使となり唐に渡り恵果阿闍梨から大日如来を意味する「遍照金剛(へんじょうこんごう)」名を与えられて密教の第八代の伝法者の地位につきます。これによって空海の思想は宗教として結実します。つまり映画は唐以前の空海、唐での空海、唐以後の空海に分けられます

もともとお釈迦さまは宗教で人は救えないと考え、四苦八苦の世の中をどう生きたら良いか哲学として弟子に説かれました。
しかし実践があってこその哲学であり思想です。現実に形にならなければ意味がないと大乗仏教のひとつ密教が起こります。密教は6世紀頃、ヒンドゥー教の影響を受けながら仏教の流れとしてインドで成立、西から東へ普及し、7世紀には唐に伝わります。日本では断片的ですが、自然を神とする山岳信仰に影響を与えます。

弘法大師空海(当時は佐伯真魚)は室戸岬で海水の浸食でできた洞窟「御厨人窟(みくろど)」で山岳信仰の修行中に開眼します。

こうして自然に密教の対する関心が高まっていきます。映画は、大学に行ったもののドロップアウトして、親さえ誰かわからない乞食僧の装いをした佐伯真魚に都に帰って勉強しろという家族の言葉に背をむけて去ってゆく所から始まります。高野山を知ったのもこの頃でしょう。

司馬遼太郎記念館

映画「空海」は、司馬遼太郎氏の小説「空海の風景」を大枠にした早坂暁氏のオリジナル脚本です。司馬遼太郎記念館に所蔵されている資料書籍が示すように仏教関係のものが多い。間違ったことを書けないので入念に調査した証明だが、司馬遼太郎氏自身、自身の作品群の中でも、もっとも好きな作品だと語っていた作品だけあって、面白いことは間違いなく、三時間の大作でありながら見せ場の連続です。

司馬遼太郎記念館の石碑

物語(1ー唐以前/空海への旅)

物語(1ー唐以前)

若き日の空海、佐伯真魚(まお)は、幼少の頃から「貴者(とうともの)」として将来を期待されていました。空海は16歳になったとき、都の大学に行くために母方の叔父である阿刀大足をたずねます。折しも奈良から京都に遷都の真っ最中でした。
桓武天皇(かんむてんのう)は奈良仏教に嫌気をさし、京に都を移されたのです、

京の大学院では期待通り優秀で明るい将来は約束されたようなものでしたが、立身出世のための勉学に嫌気をさし1年で突如ドロップアウトして家族が止めるも聞かず山岳修行の旅に明け暮れていた。

延暦21年、富士山が大爆発を起こし、真魚は逃げ惑う村人たちを鍾乳洞に避難させる。地震の恐怖に駆られながらも生きようとする人々を見て、「人は生きてこそ救われる」と智慧を得て指針となる。そして室戸岬の洞窟「御厨人窟(みくろど)」で「虚空蔵求聞持法」の修行をしている時に、口に明星(虚空蔵菩薩の化身)が飛び込んできて、悟りを開いたとされています。

さて、私の解釈だが、生きるとは、「生になりきる」ことです。このセンスは幼少から磨き上げたものでしょう。大学をドロップアウトしたのも都では「なりきる」対象がないと感じたのでしょう。

この「なりきる」という行為が、現在でいう「マインドフルネス」のことで、お釈迦様が説いた『八正道』の中の7番目「正念」の教えです。正念場(しょうねんば)と言いますが意味は、人の真価や真の実力などが試される、非常に重要な局面を指す表現。人生を通して自分になりきっていくのです。

八正道

物語(2ー唐以前/空海への道)

物語(2ー唐以前

804年。空海と名を改めた眞魚は、遣唐使の一員として長安へ向かいます。
阿刀大足は生きて還ったものは半数に満たないと反対しますが、空海の目的は、密教を日本に持ち帰ることでした。4艘仕立ての遣唐船は、沖へ出るとすぐに嵐に遭います。遣唐船が嵐で難破しそうになります。船内で揺れに揺れながら悪戦苦闘するときに、のちに書道史上の「三筆」のひとりと橘逸勢から「お前も坊主ならお経でもあげたらどうだ。」と指摘されます。
「そんなことで天が動くか」と否し、風と雨と波で大荒れの甲板に出ます。


この雨も、風も、波もなんだと思う、全部天の息だ。俺の鼓動だ!俺の涙だ!
この大宇宙は生きている。全部生きている。風も雨も波も生きている証しだ、
この嵐を治めようと思うな!己が風になれ!
この嵐を治めようと思うな!己が雨になれ!
キャ(空)・カ(風)・ラ(火)・バ(水)・ア(地)!!」

「この嵐を治めようと思うな!」には仏教が目をそむけてきた愛欲の問題が潜んでいます、自らの身体と精神が欲するものを抑圧するな、己が風になれ!己が雨になれ!
人は生きてこそ救われる」という想い、自分自身になりきれ、もともとのいのちを叱咤激励するのです。北大路欣也の演技は「もともとのいのちになりきれ」と観客に訴えかけてくるようです。「この嵐を治めようと思うな!」の言葉に「私は国家に治らない」というセリフがダブります。

物語(3ー唐時代/弘法大師への道)

物語(3ー唐時代)

猛烈な時化の中、2艘が行方不明、空海の乗る船と、もう1艘、最澄の乗った船が1か月後、航路をはずれて唐へ漂着。陸路50日かけて長安へたどり着きました。

長安・西明寺。空海はここで、唐国を行き来する様々な文化・思想に出会います。その束の間をシルクルードに憩いを求めた空海は、西から東へ吹く止めようのない風を運ぶ人たちの息づかい、多種多様な民族のたくましさに心が躍り、自分も風を日本に早く運びたいと思うのです。

長安・醴泉寺。密教を短時日で学ぶ道をめざす空海は、密教の原語「梵語」の習得に取り組みます。少なくとも3年はかかるといわれますが、空海はわずか3か月で習得します。空海が先を急いだのは、老い先短い密教の本山、青龍寺の老師、恵果阿闍梨(けいかあじやり)に帰依したいと願っていたからです。

インド直伝の密教を授かった唐でたった一人の人物、恵果阿闍梨は、自らを老人と称して、空海の遅すぎた訪問を喜びます。これには意味があります。「わたしには、もう先がない、空海よ、よく来た、おまえに密教のすべてを授ける、密教は西からやってきた。それを東の国へ持ち帰りなさい」。
弟子の反発を抑えるような老師の言葉に空海は深々と頭を下げました。

当時の長安(現西安市)は、人口100万、国際都市として世界一二の繁栄を極めていまいした、
空海が済んだ場所はシルクロードに起点の近くの繁華街でした。
恵果阿闍梨の言葉は、嵯峨天皇に天皇の座に執着せずに、弟君に譲ってしまいなさいにつながっています。さすれば麗しき兄弟愛によって、国民も安心すると促す行為につながっています。

物語(4ー唐以後/弘法大師への道)

物語(4ー唐以後)

真義をつかむのに20年はかかるといわれる教えを、3か月で会得した空海は、恵果阿闍梨亡き(入滅)後、日本へ帰ります。空海を待っていたのは、以前にも増して顕著になった政治の混乱です。遷都を断行した桓武天皇は崩御し、後継の平城天皇を籠絡する藤原薬子(フジワラノクスコ)が、裏から天皇家を操ろうと画策しているのでした。

これに端を発した天皇家の争いは、横道にそれた兄の平城天皇に弟の嵯峨天皇が勝利して幕を引きます。薬子は自害しますが、争いの収束の裏には、嵯峨天皇を擁護する空海の、大日如来に帰依し、護摩になりきった護摩祈祷がありました。

さらに空海は、より実践的な布教を求めて京を離れます。空海が向かった先は、日々の生活に不安や恐怖を抱えて生きる農村や漁師の人たちが住む地域です。

いつの世でも、突如湧いたように疫病が流行し、人びとを不安の底に陥れます。また、地震、津波、嵐といった災害も、人びとの心に恐怖心を植えつけます。

空海は、これらはみな、人びとの心の闇から発していると訴えます。何ごとにも悲観せず、自ら救いを求め、幸せを願うこと。弱さを打ち消して、強くたくましく生きる必要性を説いています。

最澄は、自分が唐で得た密教は断片でしかなかったことを知り、空海の門下生になりたいと申し出ます。こうして考えられなかった交流がはじまりますが、理趣経を巡って対立します。理趣経は「男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である」から始まるので、空海は理趣経は写経で理解できるものではないと主張したのです。最澄には受け入れがたい経典でした。さらに最澄の心を痛めたのが空海のもとに出張してきていた最澄の弟子(泰範)の離反でした。言っていること自体は空海の方が正論でしたが、密教を極めたければ、自分の弟子になるのが筋だと言わんばかりの要求に最澄は怒ります。

空海はその後、都を離れ、人を救いに果てまで行くと旅にでます。
疫病に苦しむ人に対し、死んで幸せになろうと考えるな。天地、宇宙に働いている力と身体にある力は同じだ。親からもらってた体のあるうちにしあわせになれ!と励ましたのです。

さらに満濃池の修復工事を頼まれた空海は、50日で修復するように農民に指示します。怯む農民に昼夜を問わず寝ずに護摩祈祷するから50日を100日にして取り組んで幸せになれと檄を飛ばします。

やがて高野山中に自らの教えを説く道場を建立します。
嵯峨天皇は、資金援助を申し出ますが、空海は空海の理由で断ります。
「それほど国家の密教はいやか?」と問う嵯峨天皇に「お怒りを承知で申し上げれば、国家などその時々の幻のすがたにすぎません。何百年かかっても、万人の寄進によって瓦1枚、板1枚を信者の寄進で建立してこそ、官の束縛のない真の信仰の場を打ち立てることができます」と主張します。

この最澄に、嵯峨天皇に、抗う精神こそ空海そのものだったのです。心の奥では自分にも抗っていたのかもしれません。

「国家などの器に私は治らない」と言った空海の面目躍如です。現実には空海が存命中高野山は100分の1も実現できていませんでした。しかし人が公平に幸せに生きているなら、空海にとってどうでもいいことだったのでしょう。

満濃池の工事は洞窟「御厨人窟」の体験を活かしたものです。

仏像を造ったり、布教や修行のために各地を巡り歩き、時には労務を提供し、困りごとの解決に心身で貢献して寄付金を集めた「高野聖」の活動が民衆の信仰生活に大きな影響を与えると同時に建立に寄与した。
高野聖は複数の集団となって高野山内に居住したが,その中でも蓮華谷聖(れんげだに ひじり)、萱堂聖(かやんどう ひじり)、千手院聖(せんていん ひじり)が三集団が最も規模の大きいものとして知られる。

高野聖

物語(5ー唐以後/弘法大師から遍照金剛への旅)

空海 [DVD]

  • 監督:佐藤純彌
  • 製作:岡田茂
  • 製作補:高岩淡、中村義英
  • 企画:全真言宗青年連盟
  • 脚本:早坂暁
  • 音楽:ツトム・ヤマシタ
  • 撮影:飯村雅彦
  • プロデューサー:上村正樹、坂上順、佐藤雅夫、斎藤一重
  • 特撮監督:矢島信男
  • 映像制作:全真言宗青年連盟映画製作本部
  • 配給:東映

まとめ

映画「空海」は1984年に制作された巨人弘法大師空海の生涯を描く正統派空海映画です。

弘法大師空海御入定1150年記念として全真言宗青年連盟映画製作本部が東映と提携して製作した作品。真言宗の目が光っているので勝手な解釈は許さない。クライマックスには真言宗の僧侶が大挙出演、ツトムヤマシタの音楽をバックに経を唱える場面は感動的だ。
脚本は早坂暁のオリジナル脚本だが、司馬遼太郎の小説「空海の景色」を大枠にしている。監督は「新幹線大爆破」の佐藤純彌。監修:全真言宗青年連盟 文部省選定作品。

自分忘れでマインドフルネス

 

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