死なずにリセットするのが終活だ!

戒名・法名
この記事は約7分で読めます。

終活ってなんだ。


終活というと死ぬための準備のように考えている方がほとんどだと思います、

しかし、年齢がいくつだろうが、病気があろうがなかろうが、死ぬ時は死にます。
少なくても、いま生きている間は、まだ死ぬ時ではないのだと思いませんか?

しかし、年齢がいくつだろうが、病気があろうがなかろうが、死ぬ時は死にます。
少なくても、いま生きている間は、まだ死ぬ時ではないのだと思いませんか?

幼くても、やりたいことをやり尽くした人は、人生を終えます。

そうでない方は、いくつになっても、やりたいこと、やるべきことを果たす責任があると思います。
その与えられた最後の機会が「終活」です。

輪廻転生

もし、やらずに逝ったら、輪廻転生は果てしなく続きます。
そして虫として、犬として、鳥として、本分を全うしなくてはいけません。
全うしない間は、ずっと続きます。

輪廻転生はうれしいことだと考えますか?

もし人として現世で全うすれば、涅槃に入ります。
輪廻転生はありません。

涅槃に入るには「業」を捨てる必要があります。
業には善い業もあれば、悪い業もありますが、業はエネルギーです。

未解決の課題があると業は力を発揮し、煩悩に苛まれます。

煩悩のあり限り。天・人・畜生。餓鬼・地獄・阿修羅の6つの領域を延々と転生することになります。
輪廻を喜ぶ方もいますが、苦しみでしかありません。

二度と生まれ変わらないことが最上の喜びなのです。

なので釈迦の仏教では、修行によって煩悩を打ち消し、業を捨てる修行を奨励しています。
救いの拠り所は自分自身でしかありません。

日本の仏教

釈迦の仏教は、大乗仏教と違います。
釈迦の仏教は、自分自身を高めて涅槃に入ることが目的ですが、大乗仏教は、衆生救済が目的です。
なので、死んだら極楽往生が目的になっています。

大乗仏教は在家で修行するのが一般的です。
つまり、「それぞれが職に就いて働いていればよい」というものです。
その代わり専門職の僧侶が修行を一身に引き受けるという考えです。

釈迦の仏教にも、在家信者はいましたが、ゴールが違います。

釈迦の教えは「いまここ」を生きることであり、そのために自分を忘れ、自分に頼り、法に頼れというものです。
自分を忘れ、自分に頼るとは、矛盾しているようですが、よくわかりますよね。

大乗仏教のゴールは仏陀になることであり、極楽往生することです。成仏という言葉が仏陀になることを意味しています。
一般に成仏は、「迷わず安からなところに行け」というように解釈されていますが、仏陀になること、極楽往生することを足して割ればそういうイメージになるかと思いますが、全くの誤解ですね。

釈迦の仏教は徹底して内側の自分にこだわっています。
一方、大乗仏教は、在家で修行ということもあってか、外側の力にこだわっています。

日本に入ってきたのは、大乗仏教です。
しかも「律」という、いわばルールのようなものが抜けています。
なぜ抜けたかというと、必要がなかったからです。

日本の仏教は慎護国家、つまり仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想、政府が仏教を利用して内政の安定を図ろうとした政策にすぎなかったからです。
律がなくては僧侶として認められないので、出家の式ができず、中国から鑑真上人ら10名の僧を招きました。

これによって形だけは整い、僧侶の大量生産を可能にしました。
鑑真上人は奈良の唐招提寺を与えられ他界するまで過ごしましたが、さぞかし傷ついたと思います。

その後、般若経、法華経、浄土教、密教・・・・様々な仏教が大乗仏教の衣替えのように誕生しました。
そのすべてに「釈迦」は絡んでいますが、釈迦の説いた「自己鍛錬」は「救済」にすり替わってしまいました。

さて、終活ですが、「救済」を求めるほど、苦しみは増すのが現実ではないかと思います。
そこで「死なずにリセットするのが終活だ!」です。

思い切りやりたいことができるように、ゴエスで整理、整頓、清掃、清潔で凛として生きる自分を習慣にしませんか?というのが終活のゴエスのご提案です。

チャレンジを避ける理由

アメリカのサイトで発表され、多くの人に衝撃を与えたのは、70%の人が後悔しているのは「チャレンジ」しなかったことです。

失敗することより、無難を選ぶのは当然だと思います。

人が抱えている不安は、恐怖、退屈、無能感、孤独、失敗だと言われます。チャレンジを避けるのは、退屈と引き換えに恐怖、退屈、無能感、孤独、失敗の4つを避けるからです。

そのためにさまざまな仕掛けがされていて、退屈を緩和します。

退屈を緩和している間に「自分」は置きざりになります。

悪魔の取引

悪魔の取引とは、不安のひとちである「退屈」を使って「刺激」と引き換えに恐怖、退屈、無能感、孤独、失敗の不安を忘れて過ごすことです。娯楽、お酒、食事・・・テレビは誘惑の最前線です。

テレビは不安を高める一方であらゆる「刺激」を使って解決策を提示します。

30%の人がやった簡単なこと

後悔しなかった人は、30%に入ることをしただけです。
それは悪魔の取引の誘惑にかられても、そうしませんでした。
なぜなら彼らは、ゴエスができていただけです。
必要なことをただコツコツとやり続けたのです。

ゴエスをしたら頭も心もスッキリ

ゴエス・・・

整理、整頓、清掃、清潔、習慣とは、自分を知ることに他なりません。

モノのゴエスをしたら、

  • 整理・・・
    整理が苦手な人は、一般邸に生活する中で「モノがどんどん増えてしまう」「モノが捨てられない」という問題を抱えています。
    モノが増えてしまう原因は、他者からのアプローチが動機になって優先していまう傾向があります。
    そうするうちに自分がなぜ、そのモノを持っているのか?
    意味が曖昧になってきてしまうのです。
    この姿勢は人生全般に影響しています。
  • 整頓・・・
    整頓とは、収納したものを簡単に取り出せるように仕組み化することです。
    ただ目につかないように収納するのなら、隠しただけです。
    自分がやりたいことがはっきりしていないと、収納をどうしていいのか、分からずになって、隠すようにしてしまいます。
    そうすると、使い時には出てこない現象が起こります。
    整頓とは、すぐに出せるように収納することです。 
  • 清掃・・・
    清掃とは、チリ、埃をはらうこと。整理・整頓したものが整った状態を維持することです。
    清掃によって整理・整頓の仕組みが保たれます。
    仕組みを保つために欠かせません。 
  • 清潔・・・
    清潔とは、整理、整頓、清掃を統合した状態ですが、清潔は姿形ではなく、感じ方です。
    感じるレベルまでに持って行こうとすると隅々まで清掃が行き届いていないとできません。
    さらに磨くことが重要になります。
    磨くことは「凛として生きる」姿を無言で表します。ここまでくると生き方(姿勢)になりますね。 
  • 習慣・・・
    「整理」から「清潔」までの仕組みを、自分に躾て自分の身体と頭に習慣化します。
    生き方は暮らし方になって具体的な行動で語られるようになります。
    もうあなたは、自然に30%の仲間入りをしています。 

できるゴエス!人生はエンドレスにワンダフル!

 

ゴエスの授戒会

授戒会とは戒名を授かる式のこと。僧侶の場合は法名といい出家するときに法名を授かります。
戒めをもって修行に励むための式です。

ところが一般人では、死んでから戒名をいただきます。
あの世に旅発つための戒名ですかね。

でも私たちは、『終活のゴエス』のメインテーマでもあるお釈迦様の教えである「いま、ここ」をなにより大事だと考えます。
それには、生きている毎日にこそ、戒名が必要だと考えています。

(「終活のゴエス」は実は誰でにでも使えるゴエスです。)

整理、整頓、清掃、清潔、習慣のゴエスを、もう二度と整理からやり直すことにないように、習慣化するテーマが決まった段階で「授戒会」を行い、宣誓を行うべきだと思います。

戒名はご自身が定めても良いし、ご家族で決めていただくもよし、友人たちと一緒になって決めても良いと考えます。
大事なことは戒めをもって一生の目標に取り組むためです。

ライフスタイルを人生脚本におとし込み、ライフプランにすることで具体的な作業を行い、実行することです。
この作業は決して簡単な作業ではありませんが、専門のカウンセラー、FPなどが、無意識を顕在化して具体的なライフデザインを作り直します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

保存保存

保存保存