三角マークとは、東映映画のことです。
昭和という激動の時代。
戦後、娯楽の王者として人々を癒したのは「映画」でした。
魑魅魍魎とした映画の世界で「時代劇は東映」を看板に業界一位に駆け上ったのが「東映」でした。
東映の全盛期はチャンバラです。その後に登場した任侠映画はチャンバラの変種でした。
全盛期には日本映画の興行収入の半分近くを東映が担っていたというから人気の凄さがわかります。
いま、その頃の古いチャンバラが続々とDVDリリースされていて、親にプレゼントする人が多いそうです。
プレゼントされた人は大喜び。Amazonのコメントを賑わしています。
もっとも東映らしいエピソードをひとつ。
重役俳優のひとり市川右太衛門の人気シリーズ「旗本退屈男」のクライマックス場面を撮影中のこと。
旗本退屈男に扮する市川右太衛門が、洞窟で悪者と戦っている場面です。
洞窟の奥に入っていき、出てきたら衣装が変わっているのを見た山城新伍が、間違いかと思い「先生、それはおかしいのではと?」訊いたところ、「これでいいんだ。ファンはこれを喜ぶんだ」と豪快に笑い飛ばしたといいます。
洞窟でチャンチャンバラバラの真っ最中。着替えもないし、シチエーションとしてもあり得ない。
それを全く気にしない荒唐無稽さは明朗時代劇の領域を完全突破して底抜けの楽しさです。
「あの人は役者だね。あの豪快さは誰も真似ができない」と丹波哲郎は畏敬の念を抱いていたそうです。
観客を喜ばせるためならなんでもありの大らかさが東映の持ち味だったのでしょう。
敗戦から国民が立ち上がり、テレビもなかった時代に映画は娯楽の王者でした。
GHQの占領下では時代劇も容易に作れず往年の時代劇スターも慣れない現代劇でお茶を濁しました。
それでも劇場の扉が閉まらないほど観客は娯楽に飢えていたのです。
新興の東映は娯楽の王者にふさわしい映画づくりをしました。
一家全員で見ることができる勧善懲悪、分かりやすく明朗な娯楽映画づくりに情熱を注ぎ大衆の心をつかんだのです。
映画は六社ありましたが、東映時代劇七人衆、片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、美空ひばりが揃うと、「時代劇は東映」を看板に快進撃。東映は後発ながら、首位に躍り出たのです。
一秒いくらの世界で、東映京都撮影所では、任侠映画時代も含めて、目の回るような忙しさから、歩いている人はなく、全員が走っていたといいます。
1955年(昭和30年)公開の『血槍富士』で初めてオープニングに登場し、1957年(昭和32年)公開の『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』から毎回使われるようになった。
戦後日本には、六社の映画会社があり、それぞれに特長あるプログラムピクチャーを製作しましたが、新東宝、大映、日活が倒産、撤退したことで、自社製作・配給の仕組みは崩壊していきました。
まず六社の特長を簡単に見ていきましょう。
松竹
時代劇は、戦前からの大スターであり剣豪スターナンバーワンの座を揺るがないものにしていた阪東妻三郎(田村正和の父)を筆頭に高田浩吉、近衛十四郎(松方弘樹の父)などを擁したが、阪東妻三郎が他界後は奮わず1960年代には時代劇の製作を中止。
主要な時代劇俳優の大半は東映に移籍した。やがて寅さんシリーズが看板になった。
大映
大映は戦前戦後にかけて「時代劇六大スタア」と呼ばれた長谷川一夫を中心に時代劇プラス女性映画の印象が強く、京マチ子、山本富士子、若尾文子など女優主演の映画が目立った。セットでは大道具、小道具の見えないところにまでこだわりコストのかかった作品は有名。丁寧であり、裏返せば無駄の多いものだった。
市川雷蔵、勝新太郎が育ったが、両者に続くスターは輩出できなかったため、雷蔵が逝去して倒産。
現在は、角川書店が権利継承。
東映
戦後、東横映画として始まる。
東映製作、大映配給が続いたが、東映時代劇七人衆である片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太朗、中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、美空ひばり、が揃うと、「時代劇は東映」を看板に、全映画興行収入の半分は東映が担うという全盛時代が続いた。
さらに新東宝、松竹の受け皿となり、主な時代劇俳優の大半を擁した。
新東宝
1946年から1948年にかけて三次にわたり、東宝で労働争議が起こる。
今井正監督や山本薩夫監督など日本共産党員が戦争中から在籍していたことで、労働運動は、従業員の九割、5600名の組合員を持つ巨大勢力となり会社と対決。
大規模な争議となり、米軍まで出動。「空には飛行機、陸には戦車、来なかったのは軍艦だけ」という言葉が残った大事件であった。
ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の10大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。
反左翼の渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。
1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立。新東宝製作、東宝配給の体制も一時的にはあったものの独自に配給体制を確立した。
その後主要なスターの流出が続きスター不足から苦戦を強いられる。
東宝
労働争議の後遺症で、製作再開のめどが立たず巨額赤字を抱え、長く苦悩する。争議後、山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉監督らは、東宝で映画製作ができないため、退社して「映画芸術協会」を設立。新東宝、大映、松竹といった他社での仕事を余儀なくされた。
日活
その後映画の斜陽期に入ると、東映の後追いで任侠映画に転じたが奮わず、大半のスターは退社し、1971年(昭和46年)に「ロマンポルノ」と銘打って成人映画専門に着手するが、ビデオの普及に伴うAVビデオに押され失速する。「にっかつ」と社名を変更。
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