1980年代に人気を誇ったプロレスラー、ランディ(ミッキー・ローク)だが、今は身体の老いをステロイド注射でしのぎ、小さな地方興行に出場する毎日。トレーラーハウスにひとりで住み、生活費はスーパーのバイトで稼ぐ、しがない毎日のランディだが、孤独を癒そうと中年ストリッパーのキャシディ(マリサ・トメイ)や長らく疎遠だった17歳の娘ステファニー(エヴァン・レイチェル・ウッド)との交流に救いを望むが・・・痛みにあなたは震えるが、ないしょにできない人生を変える生涯の一本です。
これからどうする?
どこに行こうか?
どうしょうか?
これからどうする?
『The Wrestler/レスラー』は、ミッキー・ローク、マリサ・トメイのふたりの演技に釘付けになるが、同時にガンズ・アンド・ローゼズの『スウィート・チャイルド・オブ・マイン』とスプリングスティーンの『The Wrestler』2つの楽曲にも釘付けになる映画です。
Guns N’ Roses – Sweet Child O’ Mine
彼女の笑顔を見てると
ガキの頃を思い出すのさ
あの頃は全てが青空のようだった
彼女の顔を見つめてると
あの頃の俺に戻ってしまうんだ
彼女の笑顔は特別な場所だから
あんまり長く見つめていると
心が砕けて泣きそうになるんだ
なんということなんだ!
子どものように可愛くて大切な人
なんということなんだ!
子どものように可愛くて大切な人だ
膏い空のような瞳
まるで雨を想ってるようだ
俺は絶対に嫌だ、その瞳に
わずかでも翳りが映るのは絶対に嫌だ
彼女の髪に触れると暖かで安全な場所を思い出す。
そこはガキの頃に隠れて祈った場所だ
雷だって、雨だって静かに消えてくれと祈った場所
子どものように可愛くて特別な人
子どものように可愛くて特別な人
これからどうする
どこに行こうか?
どこに行こうか?
どうしょうか?
これからどうする?
どこに行こうか?
どこに行こうか?
どうしょうか?
これからどうする?
どこに行こうか?
どこに行こうか?
どうしょうか?
どうしょうか?
これからどうする?
どこに行こうか?
どこに行とうか?
子どものように可愛いい俺の特別な人
クライマックスに流れるのが80年代後半にロックシーンを変えたガンズ・アンド・ローゼズのファーストアルバム『アペタイト・フォー・ディストラクション』収録曲<SWEET CHILD O’ MINE/スウィート・チャイルド・オブ・マイン>。
Where do we go?
Where do we go now?
Where do we go?
Ooh, where do we go?
Where do we go now?
劇中、80年代の花形レスラーだったランディ・“ザ・ラム”・ロビンソン(ミッキー・ローク)を象徴するガンズ・アンド・ローゼズは80年代後半に大ブレイクしたバンド。もっとも危険なバンドとも言われる。
人生の終焉を覚悟して、ランディに本心を告げるキャシディ(マリサ・トメイ)を振り切って、夕焼けのハイウェイ、リングに向かうシーンで<スウィート・チャイルド・オブ・マイン>が流れる。ロックンロール状態のあることを音楽で語り切る演出に泣ける。この曲を知っていたなら、この瞬間に鳥肌が立つヒトは多いはず、ウッと思わず世界が涙する瞬間だ。
ステージで踊っていたのを途中で放棄して自分に戻ったキャシディは。、ランディを追いかけて会場に向かう。キャシディの着ていたトレーナーのバックに骸骨がプリントされているのも泣かせます。
この曲はミッキー・ロークがボクサー時代にも使用していた楽曲。
低予算映画という事情を知って、ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズが、映画での無償での使用を快諾してくれたことの感謝しているという。
レスラー/世界が涙したあらすじ
『レスラー/The Wrestler』は、2008年に公開された低予算にして世界中で映画賞を獲得した。
監督は「ザ・ホエール」のダーレン・アロノフスキー、主演はイケメン男優でブレイクしながらもボクサーに転向、その後映画に復帰したミッキー・ローク。
心臓発作で引退を勧告された中年レスラーが自分の人生を見つめなおす物語。
かって人気のプロレスラーであったランディ(ミッキー・ローク)は、年老いてもプロレスを続けていたが心臓発作を起こしてしまう。
バイパス手術で一命を取り留めた医師は過激なレスラーを続けることは死に至ると引退を勧告する。自分の人生を見つめなおし、なんとかして一般人の生活に溶け込もうとします、
心臓発作を起こしたランディは、キャシディに会い、置き去りにしたひとり娘(エヴァン・レイチェル・ウッド)に会いたいがどうしたらいい?と相談します。キャシディの助言もあり娘のステファニーに現状を伝えにいく。しかし、親子関係は破綻しており、17歳のステファニーからけんもほろろにまくし立てられ、ランディは立ち尽くしてしまう。
レスリング以外のことは知らず、不器用であるがゆえに、もがき、職を探し、心ならずも置き去りにしたステファニーともよりを戻し、一度はすべてが順調に運びそうになるがうまくできず、やがて周囲を絶望に墜しこみます。(おいらは大好きなマリサちゃんの汚れ役挑戦に落ち込みます)
お互いに好意は持っているものの、様々な事情を抱えているランディとキャシディ。ランディの求愛にも、客との一線を越えられないという理由でキャシディはランディを拒絶する。「正直になれ」というランディ。頭に血の昇ったランディは、それなら客としてラップダンスをするよう強要して関係をこじらせてしまう。
店を追い出されるランディ。
レスラーたちには強い仲間意識がある。一緒にドサ回りしたり、ガソリン代や食い物を分け合ったり、テクニックを教えあったりするんだ。試合は多分にチームワークだからね。お互い、相方に頼るところが大きい。そして相方に対する信頼がなければ成り立たないし、その信頼が強ければ強いほど、互いにすごいワザを繰り出せて、客を熱狂させられる。レベルの違う振り付けや高度な運動能力が必要なワザを披露できるからね。オレがその存在すら知らなかったような高度なやつをさ。彼らはライトの下の一瞬、そのためだけに生きる。客のアドレナリンが噴出する。それを浴びて、彼らは自分を極限まで駆り立てるのさ。人体の能力の限界を超えてね。だから鎮痛剤が要る。酒や、ステロイドが要る。止まれない、止まっちゃダメなんだ。(ミッキー・ローク)
映画は、レスラー仲間の日常を、ステファニーとの約束を破ってしまう出来事に投影する。参加したことで、入った店でたまたま出会ったレスラー目当ての女と一夜を共にする。
パーティーとはコカインを吸ったうえでのファックのこと。ステファニーの涙の重さと比べたら比較にならない情事で、寝込んでしまったランディはステファニーとの約束を破ってしまう。謝罪にステファニーを訪問するが、友人は会わそうとしない。やっと話ができる状態になったものの、ステファニーの怒りはおさまらない。
なにもかもうまくできないランディは自暴自棄になり、死に場所に、20年前に伝説の試合と言われたアヤトッラー(アーネスト・ミラー)の引退のメモリアルマッチの再戦を選ぶ。
アヤトッラーはリタイヤ後の人生設計も考えている。アヤトッラーはプロレスはビジネスなんだと割り切っていて悪役に徹している。ランディの不器用さが浮き彫りになって悲しい。(アヤトッラーもいい感じ)
やがて、キャシディは喧嘩別れのようになったランディの家を訪ねた。
私が悪かったと謝罪する「本心と違う。あなたは特別な人だ」といい、ランディとの関係を壊したくない気持ちを伝える。だが、心の整理をしたランディはすでに吹っ切れており、これから試合に向かうと告げる。ランディは再戦することでかっての女や家族など省みない状態にあり、80年代の全盛期だった自分の魂を取り戻しすことに傾いていた。
身も心も満身創痍、ボロボロになったランディが、再び試合をすると知ったキャシディは、ランディが心配で頭がいっぱいになる。辞めさせようとステージ放棄をしてランディに走る。
ランディを追いかけて試合会場にやってきたキャシディ。
キャシディもランディの危険を顧みない行動によって抑えていた自分を知ることになる。
ランディに本心を飛び越えた裸の自分をむき出しにする。
「いるわ。私がいる。」
行くよ。キャシディに背をむけて、観客の呼ぶリングに向かうランディ。
リングに上がったランディはレフリーのマイクを借りて、聴衆に向かって話す。
この人生、大切なものを全て失うこともある。今や耳は遠いし忘れっぽいし、体もガタがきてる。でもここに立ってる俺はまだラムだ。時が過ぎれば人は言う、“あいつはもうダメだ”“終わりだ”“落ち目だ、お払い箱だ”。だがいいか、俺に“辞めろ”と言う資格があるのはファンだけだ。
ここにいるみんなが俺を戦わせてくれる俺の大切な家族だ。
愛しているよ、ありがとう!
喝采を浴びるランディに「いいぞ」とエールを送ったのち、ここぞとばかりに、悪役アヤトッラー(アーネスト・ミラー)が後ろから襲いかかる。
やめてと言わんばかりのキャシディは見ていられない。試合を正視出来ず会場をあとにする。
キャシディの姿がないことを見て、ランディ一瞬寂しさが顔を横切る。
案の定、試合中に心臓の具合が悪くなったランディ。観客は興奮しているが、もうだれの目にも明らか。ランディを止めようと懸命なアヤトッラーのレスラー魂が胸を打つ。
血を床に流して
君を喜ばせてきた
友よ、これ以上を何を求めるんだ?
これ以上を何を求めるんだ
もういい。早く俺をフォールしろ。もう充分だ、終わらせろ。・・・アヤトッラー、レフリーが制止するのも振り切って、俺に任せろとコーナーに上ったランディはファンの大歓声を浴びながら得意の必殺技「ラム・ジャム」をやるぜと肘をさする。アドレナリン全開の会場では大歓声が湧き上がる。
物語から〜一瞬の選択が人生の道を作る
ヒトは誰でも自分を理解していないのか、あるいは衝動的に誤解するのか。
道があるのか、ないのか、実際には「一瞬の選択」が道を作っていく。
生きるとはどういうことなのか、わかっているようで実際にはわからない。
ランディはリングの中に現実があると認識する。リングの外には怖ろしい世界があるだけだと、ガラスの破片、有刺鉄線、釘、カミソリ、義足、イス、フライパンが散らばったリングに裸で入っていく。傷だらけになり、血だらけになる世界では、薬漬けにならなければ、生き抜くことができない。
リングの外で生き抜くためには、人を気遣う小さな愛が薬の代わりをする。ランディは置き去りにした17歳のひとり娘・ステファニー、ステファニーとどう接したらいいか、サポートしてくれたストリッパー・キャシディに愛を求める。それぞれに事情と愛を抱えた彼女たちはランディに巻き込まれ、選択を迫られる。選択が人生を変えることは十分理解しているので警戒しているが、一瞬の判断ミスが人生を変えることを承知していない。
ステファニーと暮らす友人は、父親にステファニーが奪われることを警戒しているようだ。キャシディは自分が9歳の息子との暮らしを破壊されることを警戒しているが、奥底では破壊されること待ち望んでいて懸命に葛藤している。
試合を辞めるようにランディに懇願するが、覚悟した後のランディには届かない。時の差で「リングの外に俺の居場所はない。」とファンの声援を指さす。もう少し早ければランディはスーパーのデリでの仕事を自暴自棄で辞めたように試合を辞めただろう。選択は逆になっていたはずだ。
本当は届いていたに違いがないが、ランディは他者が信じられない人生を歩んできたのだろうとおいらは推測する。届いていたことを認識するのは、彼らの意思ではなく、ほんのわずかな時間差だったはずだ。
映画は語っていないが、ランディにも何度も別の道を選ぶチャンスがあったはずだ。
たとえば最後のチャンスであったはずのステファニーとの約束を破ってしまったのは、レスラー仲間とのどうでもよかったつきあいに参加したことに起因している。入った店でたまたま出会った女と一夜を共にしたことで、決定的なミスをやらかしてしまう。ステファニーの涙の重さと比べたら、安直な時間の過ごし方は比較できない。その結果、まるで決まっていたかのように自分を追い込んでいく。実際には決まってなんかいない。
ランディとキャシディの時が整っていれば、9歳の子どもとソファに座って暮らす人生も選べたはずだ。
ヒトは自分のするべきことは何か?目覚めた瞬間から自覚して最優先して生きなければならない。
ところが、ヒトは頭で思うほど自分を意思で動かせない。自覚できない。身体が自分の時間をリードしているからだ。映画『レスラー』は、身体を資本に生きる人間を通して、身体の資本にしない生き方があるはずだと教えてくれている気がする。ダーレン・アロノフスキー監督は未見だが最新作『ザ・ホエール』でも200kgを越す体重の父親と娘の行き違いを描いている。
『The Wrestler/レスラー』は、意思と脳と身体と時間の関係を描いた映画かも知れない。
60兆の細胞ネットワークで、できている身体は習慣で勝手に機能して生きている。
「なぜ、それを選択したのか?」と問われても、万事説明できかねるのが人間だ。
映画『レスラー』は、ヒトの人生の実際は判断の差ではなく、時間の差が人生を決めていることを伝えたいのではないのか。
主役のミッキー・ロークは80年代、『ナインハーフ』や『エンゼルハート』などイケメンで女性をとりこにし。デニーロとも互角で張り合った男優だ。弟の死がきっかけでプロ・ボクサーに転向したらしい。パンチで顔は歪み、傷だらけになり整形して映画界にカムバックした。
彼に「なぜハリウッドのトップスターの座を捨てて、ボクサーになったのか?」と尋ねても、業(ごう)の仕業であって、正しく説明できないだろう。
子どものまま大人になった傷だらけのふたりに泣ける
Wrestler (Blu-ray)
結末は判っていてもどんどん惹き込まれて泣ける以上に鷲ずかみにされて「ラム・ジャム」されます。戦いをエンターテイメントとして見せる子供のまま大人になった人たちの思考回路に理屈を超えた異様な潔さを感じます。
肉体を血まみれにして暮らすランディもストリップで生計をたてるキャシディも同じ人種であることが痛々しいのに、そのふたりがすれ違ってさらに痛々しさ万倍、映画はこれでもかと言わんばかりに手をゆるめることなく理不尽を描く。キャシディが女手ひとつでまっとうな人間にしたいと育てる9歳の息子がランディからギフトされたフィギュアでプロレスごっこして母の帰りを待つすがたに泣かされる。ランディもこうして育ったのだろうか。
キャシディには居場所を探すギリギリの賢さがあり、有刺鉄線とガラスの破片、釘、カミソリで切り刻んだ身体に、数え切れない痛み止めを飲み込んだランディに残されたのは死に場所しかない。
すれ違いを防ぐには新手のまだ見ぬ「ラム・ジャム」しかないのです。
それがないことを知っても、ランディの誠実さを受け入れようとするキャシディの女ごころに泣いた。
子どものまま大人になることと、子どもの心をもった大人になることは全然違うのです。
おいらは、新しい「ラム・ジャム」をやったと信じて、スイッオフにしたい。
心臓が震えるラストシーン
ランディとミッキー・ロークの子どもで彷徨う、ひたむきさが見事にシンクロして演技以上のリアリティに心臓が震えます。
「ミッキー・ロークでないとこの映画は撮れない」「ダーレンでないとこの映画には出ない」と予算以上にこだわり抜いたふたりの魂ともシンクロしている名作中の名作です。
一度見たら忘れられない強烈なラストシーンのあと、エンドロールに替わります。
ブルース・スプリングスティーンの1、2、3、4・・の掛け声のあとに語るようにブルースの弾き語りが流れます。
・・・自由に駆け回るしか脳のないポニーをみたころがあるなら、それは俺。戸口を回って血を流してあんたを満足させた。これ以上他に何を求めるんだ。これ以上他に何を求めるんだ・・・・
エンドロールに流れる主題歌には、ブルース・スプリングスティーンが、ミッキー・ローク自ら書き送った手紙に快諾、脚本を読み込んでツアー中に書き上げたタイトルと同名曲『レスラー』が流れます。渋い!
ヴェネツィア映画祭で金獅子賞、ゴールデングローブ賞で主演男優賞を受賞し、本曲も第66回ゴールデングローブ賞・オリジナル歌曲賞を受賞した。
Bruce Springsteen-The Wrestler
走り回ることしか脳のないポニーを
見たことがあるかい?
走り回ることしか脳のないポニーを見たことがあるなら
それは俺
片脚の犬が道を歩いていくのを
見たことがあるかい?
片脚の犬を見たことがあるなら
それは俺
それは俺
(*) 繰り返し
俺は一軒一軒戸口を回っていく
俺を見たということだ
いつも何かを失って出て行く奴を見たなら
それは俺
血を床に流して
君を喜ばせてきた
友よ、これ以上を何を求めるんだ?
これ以上を何を求めるんだ
埃と藁しか詰まっていない案山子を
見たことがあるかい?
その案山子を見たことがあるなら
それは俺
片腕の男のパンチが空を切るのを
見たことがあるかい?
片腕の男を見たことがあるなら
それは俺
(*) 繰り返し
慰めてきてくれたものを遠ざけ
俺の故郷であるここには
もう居られないんだ
俺の唯一の信念は
観衆に見せる折れた骨と傷の中
片脚の男が自由闊達に踊ろうとするのを
見たことがあるかい?
片脚の男を見たことがあるなら
それは俺
この映画の見所はランディ(ミッキー・ローク)が見せる、リアルなプロレスシーンです。
しかしそれ以上にストリップをしていても、子供との暮らしを守るために裸になれない女ごころを演じるキャシディ(マリサ・トメイ)が、居場所を放棄しても、むき出しの女ごころを揺れながら露呈していく様です。キャシディもランディ同様、不器用にしか生きられないのだ。
男にはすべてを捨てられる命がけの死に場所があり、女には守るべきものは守らなければならない命がけの居場所が必要なのです。
膏い空のような瞳
俺は絶対に嫌だ、その瞳に
わずかでも翳りが映るのは絶対に嫌だ
子どものように可愛くて特別な人
子どものように可愛いい俺の特別な人
ガンズ・アンド・ローゼズの<SWEET CHILD O’ MINE/スウィート・チャイルド・オブ・マイン>が胸を切り裂きます。
上映時間:109分
ジャンル:ヒューマンドラマ
監督:ダーレン・アロノフスキー
キャスト:ミッキー・ローク、マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド、マーク・マーゴリス etc
まとめ
人生は僅差、時間の差。
身体と脳と時間の三方よし。
ゲンキポリタン大学
「社会人基礎力」(全6回)
- 人生100年時代社会人基礎力3つの能力
- 社会人基礎力①12のの能力要素
- 社会人基礎力②前に出る力を育てる主体性と8つの基準
- 社会人基礎力③考え抜く力を育てる思考法
- 社会人基礎力④チームで働く力
- 社会人基礎力に追加された3つの視点
コラム
-
- 自我と交流分析
- 自他肯定をライフスタイルにする『お粥さんプロジェクト』
- 人生の方程式から外れない<イマジン>3つの自我の使い方
- メンタルモデルを変える5つの心とエゴグラム
- 般若のゴエス|自分を忘れるアサーティブ・コミュニケーション
- 般若のゴエス|アサーション・コミュニケーション|率直について
- ロジカルシンキング
- ラテラルシンキング
- システム思考
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