こんにちは、白隠禅師の赤ちゃんをめぐる神対応すごいですね。
白隠禅師は、目の前で生じることに 何の自分の主張もせず、不満や愚痴も無く自分が理不尽な状態に陥ちいっても 、また誤解が解けても 、他人事のように「おおー、そうか」と淡々と対処しました。
その背景にはトラブルに遭遇しても乗り越える3つのステップと揺るぎのない3つの自信が伺えます。賃金があがらない我が國で収入アップにもつながる3つの自信とは以下の3点です。
では、白隠禅師の神対応を創造した3つの自信についてご説明します!
3つの自信が見える白隠禅師の歩き方
おおー、そうか!3つの自信がどのように育まれたのか、白隠禅師の歴史を見ると、見えてきます。
白隠禅師は、商家の長沢家の三男として駿河国原宿(現材の静岡県沼津市原)で誕生します。15歳で出家。松蔭寺、単嶺和尚のもとで得度し、慧鶴(えかく)と命名されます。「法華経」に感動、その後、諸国行脚で修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験します。
見性体験とは禅の修行中に起こる禅の悟りの第1ステージです。「変わらない、不動のものを発見する」ことが出来ます。
有名な野球選手が「ボールが止まって見えた」と発言していますが、なにごとも一心に精進していると不思議な体験をすることはよくあります。自分の場合、ビジネスで「トンネルの先に明かりが見えた」と実感したことがあり、業界で誰も達成したことのない記録を出したことが続きました。到達にたどり着けることを知った瞬間でした。
但し、まだまだ道半ば「見性体験」で天狗になると落とし穴にはまり停滞が起こります。
白隠慧鶴も停滞し、長野県飯山の正受老人(道鏡慧端)にあなぐら禅坊主と厳しく叱責され、その指導のもとで修行を続け第2ステージの悟りに到達します。しかし禅の厳しい修行が心身に極度の緊張状態を長期間にわたってもたらした結果、禅病を発症して重篤な抑うつ状態に陥ります。
白隠禅師を救った内観の秘法
京都北白川の山中にある岩窟に数百年住んでいたという伝説の白幽子(はくゆうし)仙人から癒しの健康法である「内観の秘法」を授かって回復します。
内観の秘法とは、いまでいう「丹田呼吸法」です。寝ても覚めても呼吸をやめれば人は死にます。とても簡単な理屈ですが、当たり前すぎて正しい呼吸を気にせず生きています。そのため実際には間違った浅い呼吸による病は蔓延しています。良い呼吸とは空気をたくさん吸い込む深呼吸だと思い込んでいる人がいます。それも大切ですが、長く吐く呼吸です。長く吐く呼吸はロングブレスではなく、ため息のように吐く呼吸です。
間違った浅い呼吸は酸血症の原因になり、心臓・肺さらに全身のダメージになり気力を弱めます。
内観の秘法は、とてもシンプルです。白隠禅師の内観の秘法はこちら。
白幽子の机上には『中庸』『老子』『金剛般若経』のみが置かれていたといいます。つまり白幽子は、学んだことを一切、手放した状態(禅語:放下著〜ほうげじゃく))を身につけていたようです。
「学ぶのではない身につけるのだ」と言った有名人がいますが、そういうことですね。
回復した白隠慧鶴はさらに修行を続けて、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成したといいます。
白隠禅師は、この時、立ち直る力を知った瞬間を体験したと思われます。
では3つの自信がどういうものか、順番に見ていきます。
知ることから生まれる自信
なにをどう知ることで、どんな自信が生まれるのでしょう。
世界と比べて賃金があがらない我が國で収入アップを実現するワークシフトに自分再教育は、重要なテーマです。
物には作った人の思い、送る人の思いがある。見えるもの、見えないものの思いを運ぶ宅急便を、27年間書き続けた「魔女の宅急便」の原作者、角野栄子さん86歳は、誰でも魔法を持っている。好きなことをひとつ一生懸命やれば魔法になる。いくつもあれば魔法でなくなる。といいます。
白隠慧鶴は、一途に禅の道を極めることで、禅の達人になりました。また禅病を発症するまで打ち込んだことで回復する必要から数百年生きたという白幽子からは呼吸法を完全マスターします。専門知識を知ることを通じて、あり方を知り、自分を知ったのではないでしょうか。
世界的な需要アップが続く時代に値上げラッシュは避けられません。
対抗手段である賃金アップはままならず、自分でするのが常識になりつつあるご時世に、ライフスキルと専門スキルのWアップは必須です。
角野栄子さんが言う「好きなことをひとつ一生懸命やれば魔法になる。」
魔法とは、気づきから自分を知ることではないでしょうか。
知ることがなんであれ、知ることがあれば学びになるのです。
平静さから生まれる自信
平静さにマインドフルネスは有効です。
マインドフルネスはライフスキルを育てなおす礎になります。
学びとは継続です。一時の感情の興奮で継続はできません。継続は反対の作用です。
激しい恋愛感情は一時的な興奮でも呼び起こせますが、安定した継続的な恋愛感情、慈しみ思いやる慈悲・慈愛の思いは平静であって実現します。
心を落ち着ける坐禅、瞑想は、緊張からは得られません。
正受老人(道鏡慧端)にあなぐら禅坊主と厳しく叱責され、禅病になるほど没頭した後に、白幽子から「内観の秘法」を教わり、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りに到達します。
「内観の秘法」とはロングブレスとも違って、身体の自然なリズムに同期する緊張のない穏やかな呼吸です。やってみてください。実感するはずです。
学んだことも全部手放し、緊張のない状態で自然と身体を自分を同期させる、揺るぎのない自分を平静さから得た自信が、赤ん坊の抱え、怒りの頂点に達した親と対面しても動じることなく、対処方法を考える余裕になったのではないでしょうか。
私は娘との交際を巡って、怒った親からストーカー呼ばわりされたことがありました。
ご両親が何を心配しているのか考えた上で考えを述べました。親は娘はあなたのことを紳士だと言っているとようやく本音を語りましたが、つまり話の本筋は結婚に対しどう考えているのかを知りたかったのです。
言い出す方が興奮して平静でないことが多いので、話の内容と表向きが全く逆ということが少なくありません。何を言いたいのかを理解するには平静さが必要になります。いつも平静でいられる自分を創ることは幸せの条件です。
立ち直ることで生まれる自信
「夜船閑話」
白隠慧鶴は、一途に禅の道を極めようとして、頑張りすぎで燃え尽き症候群のような禅病になったことは、私たちが注意するべき点です。マインドフルネス、瞑想ブームは結構なことですが、白隠禅師が禅病になった顛末は「夜船閑話」に詳しく書かれています。
ひどく落ち込む体験をしても、自分には乗り切れるという自信は、どこからどのようにやってくるのでしょう。一般に避けたいと思うのが常ですが、逆に避けずに直視することが立ち直る勇気になります。
なぜ、直視できるのでしょう。
死んだら、すべて消えてしまうという究極の真実です。
うまくやりたい、成功したい、思いが強いと執着心が強くなって身動きできなくなります。自分の思いが強いとどんどん鬱になりますが、どんなにあがいても死ななかった人は誰もいません。
怒っている父親に対峙した瞬間、身に覚えのないことをまくしたてられたら、唖然とするでしょう。しかし、「おおーそうか」と言って赤ちゃんを受け取ることは、これから先の暮らしを予測したら、とてもできることではありません。ここでの立ち直る力とは、嵐の中に突然、放り出されるのに似ています。
人は誰でも、悩みを解き、苦しみから脱出するエネルギーを持っているといいますが、頭に記憶している知識では役に立ちません。死ぬことを身体で学ぶのも禅の教えです。
白幽子の机上に「中庸」「老子」とともにあったという「金剛般若経」はイギリスの老舗文芸誌GRANTAに世界を変えた本10選の1つです。
ダライ・ラマ法王14世も弟子たちに説いた「金剛般若経」には、世の中で生きる人共有の関心ごと「どのようにしたら苦しみから解放されるだろう」という問いに答えるかのように、「心の持ち方」が語られています。白隠禅師はすでに用意があったのでしょう。
どんなときに気分は沈むのか、思い通りにならないときです。良いこと悪いこと。うれしい、悲しい。なにごとも二つに分けて対比して、固定した動かし得ないものと思い込んでしまうが、すべては自分の心の中で描いた映像でしかない。
決めつけ、思い込み、分け隔てせずに、世界のいかなるものも、動かないものとしてではなく、生まれ、変化し、滅ぶもの。良いことの中に悪いこともあり、悪いことの中に良いこともある。 そしてその発見、体験を材料に「よし、もっと素敵な生き方をしてやるぞ」と中庸をまっしぐらに突き進めば面白いこともたくさんあるだろうと期待をしたのではないでしょうか。
日本の禅宗
日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)は5つあり、始まりは鎌倉仏教です。曹洞宗・臨済宗・黄檗宗の三つが三大禅宗と呼ばれています。
曹洞宗
日本における曹洞宗の開祖は道元禅師。
本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。
専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とし、仏陀(=悟りを開いた人・目覚めた人)の教えであり、出家在家に拘らず求道者各自が悟りを開くことを標榜します。
曹洞宗は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、中国禅宗の祖である達磨(5世紀後半 – 6世紀前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 – 713年)の弟子の1人である青原行思(? – 740年)から、石頭希遷(700年 – 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745年 – 828年)、雲巌曇晟(782年 – 841年)と4代下った洞山良价(807年 – 869年)によって創宗されました。
臨済宗
日本における臨済宗の開祖は宋に渡来し、臨済宗黄龍派の印可を受けた栄西。
臨済宗の本山は、正法山 妙心寺(京都)・南禅寺(京都)
栄西は1195(建久6)年に日本最初の禅道場である聖福寺を博多に建立します。
一方で、鎌倉時代中期の南宋から渡来した禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゆう/1213〜1278)から始まったという説があります。仏道修行の原点に立ち返り、ひたすら悟りを追求した蘭渓道隆の生前の行いに対して称号される諡(おくりな)は大覚禅師です。蘭渓道隆の流れは鎌倉末期から南北朝の時代に、「応燈関の三代」と呼ばれる日本臨済禅に至ります。
中国の北の方にあった臨済寺というお寺を拠点にしていた宗派なので臨済宗という名前がつきました。歴史の教科書には、臨済宗の開祖は栄西(ようさい/1141-1215)と書かれていますが、正確にははっきりしません。栄西はもともと天台宗の僧侶だったからです。しかし、平安時代終わりから鎌倉時代の初め、天台宗では僧たちが権力争いばかりしていたので、栄西は失望して、栄西は仏教を学びなおしに、中国の宋に2回行きました。
- 大応国師(南浦紹明/なんぽしようみよう) 1235~1308
- 大燈国師(宗峰妙超/しゆうほうみようちよう)1282~1337
- 関山(関山慧玄/かんざんえげん)1277~1360 です。
現在に伝わる日本臨済宗の法系は応燈関に属しており、関山の衣鉢のみが、江戸時代前期に登場した白隠慧鶴(はくいんえかく)に受け継がれ、他の法系はすべて絶えてしまったので、こちらが開祖の流れだという説があります。
黄檗宗
黄檗宗の開祖は、江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 – 1673年)。
黄檗宗の本山は隠元が開いた萬福寺(京都・宇治)。
黄檗宗は、中国・明時代の高僧隠元隆琦禅師が1654年に渡来され、広めた禅宗の一派。
臨済宗の流れを汲んでいて教義・修行・儀礼・布教は日本臨済宗とほぼ同じですが隠元の来日が新しく臨済正宗を名乗ったことが、四代将軍家綱に許可され宇治に黄檗山萬福寺を開くことにより、正式に黄檗宗が認められました。
まとめ
白隠禅師の神対応は、日常的にすでに心の持ち方ができていたからです。
どんなときに気分は沈むのか、思い通りにならないときです。
良いこと悪いこと。うれしい、悲しい。なにごとも二つに分けて対比して、固定した動かし得ないものと思い込んでしまうが、すべては自分の心の中で描いた映像でしかない。
決めつけ、思い込み、分け隔てせずに、世界のいかなるものも、動かないものとしてではなく、生まれ、変化し、滅ぶもの。良いことの中に悪いこともあり、悪いことの中に良いこともある。
そしてその発見、体験を材料に「よし、もっと素敵な生き方をしてやるぞ」と中庸をまっしぐらに突き進めば面白いこともたくさんあるだろうと期待をしたのではないでしょうか。