白隠禅師
白隠慧鶴(はくいん えかく)
臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧がいらっしゃいました。
臨済宗妙心寺派法輪寺は通称「ダルマ寺」の名で親しまれている。
達磨(ダルマ)は縁起物として日本人には馴染み深いですが、元々はインドから中国に禅宗を伝えた禅宗の初祖。法輪寺は、達磨大師の禅画を多く描いた白隠禅師ゆかりの寺です。
突然、やってきた赤ちゃん
豆腐屋の商売をする家に未婚の美しい女性が住んでいました。
何の前触れもなく身篭ったことを知った両親は怒り、その子の父親はだれかと問い詰めました。
娘は彼氏をかばおうと苦し紛れに「白隠禅師の子です」と父親が最も尊敬する白隠禅師の名を咄嗟に使いました、
怒り心頭、両親は白隠禅師の元を訪ねた。だが白隠禅師の反応は肯定も否定もせず「おおー、そうか」と言っただけでした。子どもが生まれると「この子はあんたの子だ」と赤子を置いて去ります。白隠禅師は、やはり「おおー、そうか」と言っただけでした。
もうこの頃になると、白隠禅師の評判は地に堕ち、嘘つき、狼、偽善者と罵声を浴びるようになりますが、全く意に介さず、生まれたばかりの赤ちゃんを育てるために、子どもに必要なものはなんでも手に入れて、もらい乳を夜も朝も数時間おきに探し続ける暮らしを続けます。
赤ちゃんにお乳をあげられるように淡々と自らお願いに歩き回り、ただただ目の前のことを受け入れる日々。腹が空けばお乳が欲しいと泣く赤ちゃんのために、その度、歩き回って貰い乳をお願いをしたのです。
一年が過ぎた頃、雪の降る寒い夜にも、お乳集めに懸命な白隠禅師の姿に、女性は嘘をついたことに耐えられず、両親に真実を告白します。
白隠禅師の子ではなく、本当の父親は魚屋で働いている若者であったことを明かします。
それを聞いた娘の両親は、白隠禅師の元を訪ねて詫びた上で、子を返してほしいと嘆願します。
白隠禅師は「おおー、そうか」と二つ返事で赤ん坊を返したのです。
白隠禅師は、赤ちゃんを受け取ったとき、この状況で、子を産んだ娘、赤ちゃんにとって、世間の評判や周りの言葉に左右されず、「いま、ここ、この瞬間」、もっとも良いのは、自分が黙って受け取り育てることだと判断したのでしょう。
そして誤解が解け、すべてを受け入れた娘の親が引き取りにきた。受け取った時と同じく「いま、ここ、この瞬間」、もっとも良いのは、自分が黙って子を返し、安堵することが関係者すべての安堵に繋がると判断したのでしょう。
そのあり方には、<外側の自分>は、荒れた海のように、傷つきボロボロになっていますが、いっときもブレない<内側の自分>があります。
<内側の自分>は、終始、波ひとつない静かな海のようです。
白隠禅師
白隠禅師
1686年1月19日(貞享2年12月25日) – 1769年1月18日(明和5年12月11日))は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。諡は神機独妙禅師、正宗国師。
白隠禅師は、目の前に生じることに 何の自分の主張もせず、不満や愚痴も無く自分が理不尽な状態に陥ったとしても また誤解が解けても 淡々と「おおー、そうか」と言うだけでした。
感情の痛みに対処する3つのステップ
感情の痛みに対処するには3つのステップがあります。
- 注意
- 情動
- 認識
最初の「注意」のステップは、単なる手続きのようなものですが、ここで心を落ち着けないと残りのステップに進めません。
ほとんどの場合、「情動」に進みますが、「注意」のステップはうまく乗り越えないと、躓いてしまい、根本的な原因が解消できなくなります。「認識」のステップに進みますが、「認識」に入れなくなってしまい、問題がくすぶり続けます。こうなると「注意」「情動」「認識」の間を行ったり来たりしながら、落ち着けないまま、認識しなければならなるので、「注意」と「情動」に認識の役割を委ねないといけなくなります。
では、白隠禅師は感情の痛みにどう対処されたのでしょう?
まとめ
名声、お金、信用、好かれたい気持ち・・・などなどどうでもいい「五蘊」「人の世の他人の価値判断」を、全部手放したところに、不幸を幸福に変える「般若のこころ(エゴを捨てたこころ)」があるのではないでしょうか。価値判断は自分のものと思い込んでいますが五蘊の集積のようなもの。死んだら消えてなくなります。
*五蘊(ごうん)とは、人間を成り立たせている五つの悩みの要素。色(しき)(=肉体)・受(=感覚)・想(=想像)・行(ぎょう)(=心の作用)・識(=意識)。