人生200年時代を楽しむ「お粥さんプロジェクト」は、分かち愛を日常にする行動です。
星の王子さまの言葉や、星の王子さまに登場する「キツネ」のことばなどを下敷きに、ブッダや白隠禅師の禅的思考を工夫して、自由で豊かなライフシフトを自分らしくデザインしてエンドレスにワンダフルに諸行無常を愉しむ暮らしです。
生きることはぜんぶ「遊び」・・・子どもたちの日々はいつだって、いま、ここ、この瞬間を生きていて、すべてが宝物、毎日がぜんぶ真理に通じています。
SDGs 17.パートナーシップで目標を達成しよう。
「すてきな奥さまですね。」「ステキなご主人ですね。」
200年婚が柱の「お粥さんプロジェクト」のコンセプトは「分かち愛」です。秘訣はケ・セラ・セラ。執着しない生き方は無計画の計画。「なるようになる(ケ・セラ・セラ)」のルーティンは一挙手一投足がすてきです。すてきなとは、どういうことか、ケ・セラ・セラのすてきからご紹介していきます。
「なるようになる」3つのルーティン
ライフスキル/マインドフルネス実践講座/ファイナンシャルプラン
『なるようになる200年のルーティン』は、大きく分けて三つあります。
①周活(毎日、同じことを繰り返す)*曜日で内容が変わってもOKです。
②週活(毎週、同じことを繰り返す=周活を繰り返す)
③終活(一生、同じことを繰り返す=週活を繰り返す)
毎日を月〜日まで繰り返して一週間。
1年は53週あります。10年なら530週、100年生きたら、5300週あります。200年なら10,600週です。
これだけ繰り返し使えば、ライフステージに合わせた自由で豊かなライフシフトも優しくなります。
100〜200年と寿命が延びると、太古から続いている「いのち」のあり方を大切にしないともったいないですね。「なるようになる」というと無計画で刹那的な生き方に勘違いされることもありますが、そうじゃないですね。「なるようになる」とは、執着しない生き方です。
執着しない人の特長は、
- ポジティブ
- 共感的
- 尊敬と信頼で動機づけられる
- 大局を見る
- 待つことができる
- 目的志向
すべてのルーティンの柱になる「マイ・スタンダード」
すべてのルーティンの中心は、
- 時間割(無理にない時間割ができていないと失敗して、自分を責めて終わりになります)
- いのちとの関係
- ヒトとの関係
- モノとの関係
- 食事・食べ物との関係
- 身体との関係
- お金との関係
マイ・スタンダードを戒律にすることで、戒律の道を辿ればあるべき場所に着きます。①整理(Seiri)、②整頓(Seiton)、③清掃(Seisou)、④清潔(Seiketsu)、⑤習慣(Shuhkan)』
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの名作『星の王子さま』では王子さまは一本のバラに悩み、自身のあり方を見つけに旅に出ます。
禅の教科書『十牛図』では、逃げた牛(自分)を探して牧人が旅に出ます。
見かけは違いますが、『星の王子さま』も、『十牛図』もコンセプトは同じ、真実の自分を探しに旅に出て、真実の自分に出会うまでの物語です。
一本のバラとのあり方を探す王子さま、逃げた牛(自分)を探す牧人は、同じであり、四苦八苦の問題を解決するために修行したお釈迦さまの姿に重なります。
マイ・スタンダードは、自分を知ることになります。
『「なるようになる」ケ・セラ・セラ』が200年婚の秘訣です。
自由で豊かなライフシフトのコンセプトになる座右の銘は「なるようになる(ケ・セラ・セラ)」です。
「なるようになる」とは、余計な悩みを抱えず、自分でコントロールできることと、コントロールできないことに分けて、自分でコントロールできることは、いま、ここ、この瞬間に没頭したうえで、コントロールできない部分については、「なるようになる」と潔く天に委ねてしまう、という態度です。ヒトはだれも『「いま、ここ、この瞬間」をやれるだけやる』しかありません。
『「いま、ここ、この瞬間」をやれるだけやる』を楽しんでいる名人はこどもたちです。
親は子どもから学ばないと、200年時代を生きるライフシフトを楽しめません。
ライフシフトは、はっきり言ってハードです。ハードさに耐え抜いた人だけが自由で豊かなライフシフトを実践できます。「楽しめる」というのはもっとも頼りになる才能です。
「お粥さんプロジェクト」が、「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」が自然体で習慣化されてようになる人それぞれのプロジェクトです。
その立ちふるまいが「すてきな奥さんですね」「ステキな旦那さんですね」と言わせます。「200年婚の秘訣」です。
なるようになる
When I was just a little girl
I asked my mother
What will I be
Will I be pretty
Will I be rich
Here’s what she said to me
私がまだ少女だった頃
母に尋ねたの
私は何になるのって
可愛くなれるかな
お金持ちになれるかなって
母はこう言ったわ
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
未来は誰にも分からないけど
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
When I grew up and fell in love
I asked my sweetheart
What lies ahead
Will we have rainbows
Day after day
Here’s what my sweetheart said
大人になって恋に落ちて
恋人に尋ねたの
この先に何があるのって
虹を毎日見れるかしらって
恋人はこう言ったわ
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
ケ・セラ・セラ
なるようになる
未来は誰にも分からないけど
ケ・セラ・セラ
なるようになるよ
Now I have Children of my own
They ask their mother
What will I be
Will I be handsome
Will I be rich
I tell them tenderly
今 母になった私に
子どもたちは尋ねる
将来何になるのかって
ハンサムになれるのか
お金持ちになれるのかって
私は優しく答える
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
Que Sera, Sera
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
未来は誰にも分からないけど
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
作詞:レイ・エバンズ(Ray Evans)
作曲:ジェイ・リビングストン(Jay Livingston)
ヒトは誰でも、自分がコントロールできることに、いま、ここ、この瞬間に没頭することしかできません。ケ・セラ・セラ=なるようになるとは、いま、ここ、この瞬間に没頭するには、準備が大事です。準備ができていないと、いま、ここ、この瞬間に没頭できずに、マインドフルネス(なりきった状態)になれません。それには毎日のルーティンがもっとも簡単な方法です。
いま、ここ、この瞬間に没頭、「いのち」を養いながら、心身を高くそびえた気持ちにして、静まり返った虚空に住む状態(マインドフルネス)で、あるべきとことにあるように、自分になりきって、自分を使い切る「ケ・セラ・セラ」の精神を身体で実践することです。
白隠禅師の教え
白禅禅師の教えは、「呼吸」だけでなく他にも重要なことがたくさんあります、
- 「おお、そうか」
- 「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」
- 「自性清浄心、客塵煩悩染」「自性清浄心、客塵煩悩染」「煩悩即菩提」
「おお、そうか」
「おお、そうか」といって、身に覚えのない赤ちゃんを引き取り、育てる。とてもできないですね。白隠禅師のように、なにがあっても「ああ、そう」とさらりと言って動じない、母親や父親に育てられた子どもはみんなヒトから愛され成功しています。「なるようになる」のもっときつい版ですね。
なぜだか。わかりますよね。
<マインドフルネス>と<禅>は違うというヒトがいます。白隠禅師なら「おお、そうか」で片づけてしまうでしょう。禅にも<曹洞宗(そうとうしゅう) ><臨済宗(りんざいしゅう)><黄檗宗(おうばくしゅう)>の3つがあり、それぞれに違いがあります。
「仏教は宗教だ。」というヒトがいれば、やはり「おお、そうか」。「仏教は哲学だ。」というヒトがいれば、「おお、そうか」でしょう。
仏教といっても<上座部仏教(小乗仏教)>があり、<大乗仏教>があり、<大乗仏教>には<密教><法相宗><華厳宗><律宗><天台宗><真言宗><日蓮宗><浄土宗>など13 宗 56 派もある。これらが口々に「我こそは・・・」と言い出したら「おお、そうか」で良いのです。
「おお、そうか」の裏には、どうでもいいことはどうでもよく「主体性」と「ヒトのためになるのなら」という戒律がはっきりとあります。執着する自分なんかどうなっても良いとする主体性が「おお、そうか」です。
悟りとは、迷いの世界(煩悩)を超え、真理を体得することで、日常の暮らしを通して体得します。体得とは知る、解るを超えて、実践です。悟りに到達することが目標ではなく、プロセスがすでに悟りなのです。
「パートナーシップで目標達成しょう」も同じで、『「パートナーシップで目標達成しょう」としている行動』が目標達成なのです。
禅寺では坐禅と作務(食事・掃除・労働)を中心に、一挙手一投足に作法(戒律)が決められています。作法(戒律)を守って暮らすことを修行と呼んでいて、修行こそが悟りなのです。私たちの日常に決まり(基準)を設けて暮らせば、なんら変わりません。
「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」
丹田呼吸法を伝えた白隠禅師は「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉を残しています。
静中とは坐禅修行、動中とは坐禅以外(=作務)の修行のことです。
では「工夫」とは何を意味する言葉でしょうか。
一般には「最善の結果を求めて、考えられる限りの方法を尽くすこと。その方法。のことですが、白隠禅師の意味する工夫とは「禅定」あるいは「精進」に通じる工夫でしょう。
禅定とは、心静かに瞑想することで得られる心の安らいだ状態です。
静中の工夫、つまり坐禅修行における工夫を考えると、考えごとをしなさいということでないのは明らか。
「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」とは、無心に取り組んでいれば、公案同様に自然に湧いてくる、あるいは天から降りてくるということではないかと思います。
つまり本心から「エンドレスにワンダフルな200年婚」「エンドレスにワンダフルな200年時代」を営んでいたら、慈悲が磨かれ精励も進み、自分になりきり、使い尽くすだろうということです。面倒なコトが幸せなんだ」という考え方です。
この実践が「清掃」です、
清掃は、パートナー(男)からパートナー(女)への愛情溢れる暮らしのルーティンにするひとつなのです。さらに自分磨きになります。つまり二度美味しいわけです。
「自性清浄心、客塵煩悩染」「煩悩即菩提」
人間の心は生まれながら本来清浄であるが、たまたま偶発的に外からとりついた埃や塵のごとき煩悩によって染められ、汚されています。「自性清浄心、客塵煩悩染」「煩悩即菩提」・・・子どもは本来、自由で無邪気なモノですが、大人になるにつれ、教育によって、自由で無邪気な子どもの心を抑えて、従順になります。
埃や塵のごとき煩悩を払い、もともとのいのちに磨きをかけるのが、整理・整頓・清掃・清潔を習慣化する、毎日の清掃です。
特に禅僧になった気持ちで行う毎朝のトイレ清掃がパートナーとの愛を育みます。(実践するにあたってはパートナートの会話が必要です。)自由で無邪気な子どもの心でパートナーが踊りたくなるようなトイレ清掃、トイレ磨きをしたいですね。
パートナーによるトイレ清掃は、禅僧の修行に通じ、金融資産、無形資産の基礎になります。
禅の修行と金融資産はフィーリング的に馴染みにくいですが「おお、そうか」です。
金融リテラシーを身につけ、お金を動かすことが家庭、地域社会、国に貢献します。
執着する自分なんかどうなっても良いとする主体性のもと、「おお、そうか」でライフシフトしませんか。
なぜ「お粥さん」なのか
禅寺では、お米をいただくと、貯蔵して計画的に食べることをしません。
一年分のお米を365日に分けて、毎日、その日の分だけを使い、人数分合わせて増減しなかったそうです。人数で、ご飯にできるようならご飯にして、できなければお粥にして、お粥にできなければ米湯にしたそうです。仏教の経典『祇園正儀」に記述されているそうです、
禅寺では米の飯を「お粥」にしてできるだけ、多くのヒトが食べられるようにします。
さらにたくさんのヒトで分かち愛する場合、水で薄め、増量したお粥にします。
お粥のことを「お粥さん」と呼ぶのには、感謝の想いが込められています。
永平寺のある福井の方は、昔、大阪に丁稚奉公して正月に実家に帰るとき、お店でお土産にと羊羹をいただきました。実家に持って帰るとみんなでたくさん食べらるようにと水で薄めて水ようかんにしました。
思いやりの精神が普通に身につき、いまも福井のヒトは全国一温かいです。
「お粥さんプロジェクト」は。200年を生きる智慧ではなく、エンドレスにワンダフルにするワザを育むプロジェクトです。親の生き方を子どもは真似るものです。エンドレスにワンダフルとは、親の生きるワザを子どもが継承するという意味です。それには、まず親がワンダフルな生き方をします。
「なるようになる」3つのルーティン
『なるようになる200年のルーティン』は、大きく分けて三つあります。
①周活(毎日、同じことを繰り返す)*曜日で内容が変わってもOKです。
②週活(毎週、同じことを繰り返す=周活を繰り返す)
③終活(一生、同じことを繰り返す=週活を繰り返す)
毎日を月〜日まで繰り返して一週間。
1年は53週あります。10年なら530週、100年生きたら、5300週あります。200年なら10,600週です。
これだけ繰り返し使えば、ライフステージに合わせた自由で豊かなライフシフトも優しくなります。
100〜200年と寿命が延びると、太古から続いている「いのち」のあり方を大切にしないともったいないですね。「なるようになる」というと無計画で刹那的な生き方に勘違いされることもありますが、そうじゃないですね。「なるようになる」とは、執着しない生き方です。
執着しない人の特長は、
- ポジティブ
- 共感的
- 尊敬と信頼で動機づけられる
- 大局を見る
- 待つことができる
- 目的志向
- ユーモアのサンスがある
以上、いろいろあるように思いますが、実はひとつです。「待つことができる」というスキルです。
待つことができる
待つことができるとは、無理・無駄を工夫、チャンスにする力があります。
待つことができるスキルは、片づけるスキル、ゴエスのスキルです。
周活・週活・終活に片づけるスキルは欠かせません。
ゴエスのスキルとは、整理・整頓・清掃・清潔・習慣の5つの頭文字Sで成り立つスキルです。
生活習慣で、待つことができないヒトが増えています。
「なるようになる」を実践するヒトは、目的志向だけど「待つ」ことをライフスタイルにできます。
- コンビニに慣れた人には「待つ」のが苦手です。
- 待つことは先入観、習慣にとらわれない思い込みにとらわれた暮らしをすることです。
- 便利はいいようですが、面倒なことに創意工夫つまり「ワザ」を育てます。
- 「ワザ」は楽しいから育ちます。
- 200年婚を意識します。200年婚の基礎は「整理・整頓・清掃・清潔・習慣」5エスです。
- 時間、呼吸、食を整える
- マインドトークせずに、執着を手放すように習慣化します
- 「いま、ここ、この瞬間をマインドフルネスな状態で暮らす」ことを実践します。
- 「ケ・セラ・セラ、なるようになる」が身につくと、ますますマインドフルネスな状態とのシンクロが進化、深化します。
言い訳しないようにするのが作法のあるルーティン
200年婚の心意気は心意気だけでも大変ですが、
準備の実践があるから心意気も育ち、実ります。
しかし準備は言い訳に変わりやすいのが特徴です。
言い訳しないようにするのが作法のあるルーティンです。
なぜ、作法のあるルーティンなのでしょう。作法のあるルーティンとは戒律のあるルーティンです。
①「因果応報(いんがおうほう)」という言葉があります。
良い行いをすればよい結果が生まれ、悪い行いをすれば悪い結果が返ってくるという考えです。
「因(いん)」とは原因、「果(が)」とは結果のことです。
禅では、結果も大切ですが、それ以上に原因に注目します。
「花が咲いたのは種をまいたからです。」が、「花が咲いた」が結果で、「種をまく」が原因です。しかし、種をまいただけでは花は咲きません。水や日光や肥料などが必要です。これら原因と結果を結びつけるものを「縁(えん)」といいます。縁のことを引き寄せの法則と言っているわけです。
しかも同じ種類の種(原因)であっても、環境や条件(縁)で、同じ花が咲く(結果)とは限らないのです。結果もそれで終わりではなく、次の原因になります。花は咲き、やがて枯れ、種を残します。
白隠禅師は原因と結果を分別してはいけない、と説きましたが、頭で考えて理解するのではなく、もともとのいのちに繋いで理解するには、自身の細胞を包んでいる身体で理解するしかありません。
この自然の真理を伝えるにはどうしたらできるのか?
白隠禅師は、呼吸を整えると分別が自然に消えることを説きました。
呼吸を整える、もっとも簡単な方法として「坐禅」という方法があることを身をもって示したのです。
なるようになる
- 物事はすべて「原因」と「結果」がある。
- 「原因」は同じでも同じ「結果」にはならない。
- 「原因と結果」を繋いでいるのは「縁」のあり方次第。
- 縁の深さ、広さを実践するために、「原因」と「結果」に分別しない。=なるようになる
縁の大切を説くために、さらに白隠禅師は
②「因果一如(いんがいちにょ)の門ひらけ」と説きました。
原因と結果は切り離すことのできない同じものだが、そのあいだに門を作って、結果のほうに目を向けてしまう。その門を開きなさい。という意味です。
門を開かないと「縁」が通れないないと説いたのです。門を開くチカラが「ルーティン」です。
門が閉じようとするチカラに、抗うルーティンを強固にするために儀式、作法を加えます。
③無二無三(むにむさん)の道(みち)直(なお)し
二つも三つもない、ただ一つの教えの道をまっすぐに歩いていくのである。、という意味です。
このただ一つの道をルーティンにして繰り返すことが「縁」になります。
④無相(むそう)の相(そう)を相として
その道を歩いていくと、確かなこと、絶対的なこと、というものがないことが分かってくる。自分もふくめて確かに「これだ」と言い切れるものがないことが分かってくる。という意味です。
ヒトは絶対的な確信・保証がないと不安になり、頭の中は執着し、依存的になりますが、ルーティンで繰り返すことで、身体で跳ね返すことができます。
⑤行くも帰るも余所(よそ)ならず
その道を行ったり来たり、歩き回ったとしても、作法のあるルーティンで断ち切れるので、もう迷うことはなくなります。
⑥無念(むねん)の念(ねん)を念として
「こうでなくてはならない」という考えから離れて、物事の本当に大切なことを見るように心がければ、
⑦うたうも舞(ま)うも法(のり)の声
うたうことも舞うことも、なすことすべて、自然と仏法にかなうことである。と、いう意味です。
この状態が「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」です。
仏とは自分自身であり、仏法とは自分の基準(スタイル)に他なりません。つまり自律です。
坐禅をするときに、広まっている言葉に「無になりなさい」といわれます。
これが坐禅を複雑なもの、難解なものとして受け取られて敬遠される一因になっています。
しかし、この意味は「何も考えてはいけない」というわけではありません。
当たり前ですが、坐禅をすると、暇な状態になるので、脳の仕組みからして当然のように、いろんなことが頭に浮かんでマインドトーク状態になります。
何も考えないということはできない、ということに気づくことから坐禅ははじまります。
つまり自分が日頃から、いかにマインドトークしているかに気づくことが大切なのです。
マインドトークを断ち切れる、もっとも簡単な方法が、下腹にエネルギーを流し込む呼吸です。
これまでの『お粥さんプロジェクト』
『お粥さんプロジェクト』は、無邪気で自由な子どもに帰って、好きなことからはじなおす遊びです。「分かち愛(200年婚)」をライフスタイルに、自由で豊かなライフシフトを実現するひとりひとりのプロジェクトです。
お粥さんプロジェクト・200年時代のゴールドラッシュ・200年婚
「これまでの記事を順番に沿って整理しましたので、参考にしてください。
▼①200年時代のゴールドラッシュは金融資産だけではありません。豊かで自由な200年にするのは「無形資産(生産性資産・活力資産・変身資産・パートナー資産)」。パートナーとの200年婚にも注目です。そしてなにより「呼吸」です。
▼②呼吸の重要性をご説明。200年ライフを健康(活力資産)に過ごすのはもちろん、主体的に過ごす原動力になり、結果的に無形資産・金融資産を豊かにします。自由なライフシフトを実現したい!
▼③200年時代は、もう始まっていて、120歳まで現役で働くためにフリーターになったという方が主体的に増加しています。既成概念を自ら打ち破るのが二極化パラダイスの原動力です。年齢に関係なく人生を遊べるヒト、遊べないないヒトになってきています。
▼④200年婚には、2つのタイプがあります。傷つく失った愛着の絆を再生して、さらに自分を育て直しうるタイプの200年婚もあります。「愛着の絆」の再生は、時間がかかりますが分かち愛で「お粥さんプロジェクト」を成功の導き、エンドレスにワンダフルな人生を約束します。どちらの200年婚も「ありがとう」が響くでしょう。
▼⑤男性が読んだら、結婚を選ぶ人はいなくなると思います。しかし、それでもやる価値があると感じた人は選ぶでしょう。「面倒なコトは楽しい」と言えるようになるからです。この心理は、すべてのことに通じているからで、「200年婚は幸せの宝庫」だと気づくでしょう。
▼⑥人間の心は生まれながら本来清浄であるが、たまたま偶発的に外からとりついた塵のごとき煩悩によって染められ、汚されています。「自性清浄心、客塵煩悩染」「煩悩即菩提」毎朝のトイレ清掃がロックンロール!
▼⑦200年婚でエンドレスに面倒なコトが楽しい暮らし。200婚は超過激ワンダフル。「あなたを応援したいから結婚してくれ!」と心から叫ぶ200年婚ってすてきですね。クレイジーな愛があればライフシフトのためのスキルアップも楽しく、掃除・洗濯・子育て。。。なんでもシェア、分かち愛を生きる歓びで爆走します。面倒なコトが楽しいんだ!
▼⑧「私はOK、あなたもOK」のライフスタイルを持ったパートナーを選びましょう。或いは潜在能力を持ったヒトを選んでください。これからの人生200年は、他のスタイルを持ったヒトとは暮らせません。愛するとは、自分より重要な存在を生きることと思います。
そのヒトになりきることです。ブッダが教えてくれた純愛です。
▼⑨愛するとは自分より大事な存在を護るコト。
たくさんのモノを護るのは大切なモノを護れなく原因になります。
Less is More・・・・わずかなモノで暮らすコトが護りやすくします。
そして必要を最高に。
▼⑩モノを所有した目的を観察しましょう。観察には「原因論」と「目的論」があります。原因論では<従属的>で、次のように人間関係に直すと<従順な子ども>の役割をしていることになります。目的論で考えると<主体的>です。<自由で無邪気な子どもの心>に繋がります。人生は全力の遊びでないとモノまみれになり、不幸になります。