人生100年時代、200年時代といっても、教育・仕事・引退の3つのステージの人生が当たり前でなくなった現代。2つ、3つのキャリアを持って、人生の選択肢を広げて、生涯を通して再創造を繰り返す。マルチステージを生きるライフシフトが当たり前の現代では100年は決して長くはありません。自由で豊かな人生を生きるには多忙すぎて、100年は短いと感じる方も多いはず。しかも4日制が現実になるとますます多忙になります。
しかし、人生の方程式はシンプルです。<精進ー妨害=結果>の引き算です。妨害するものは無数にありますが、妨害するものを少なくするのは自分のあり方次第です。
自己否定感は「執着」が妨げとなって精進を台無しにして、ライフシフト〜ライフステージのダメージになります。エンドレスにワンダフル、次世代を幸せにする自由で豊かな人生を生きる正しい生きる力の磨き方についてお話します。
エンドレスにワンダフルなライフスタイル
- 私はOK、あなたもOK
- 私はOK、あなたはNO
- 私はNO、あなたはOK
- 私はNO、あなたもNO
<自己承認欲>そのものが悪いわけではありません。他者に認めてもらうと快の感情から意欲的になれるものですが「執着心」が良くないのです。自己承認欲に支配されると、なにかにつけて無意識に「執着心」が表れて、安定したコミユニケーションが苦手になります。人生の方程式は<精進ー妨げ=結果>ですが、無意識の「執着心」は、あらゆる側面で妨げになります。
ヒトは縁起の世界に生きていますが、執着まみれの「執着」は、ありとあらゆる縁起を執着まみれにして、沼に落とし入れます。親子関係でも、夫婦関係でも、恋愛、仕事や会社、友人、知人、お金や持ち物などなど、ありとあらゆるものが執着の対象となり得るだけでなく、狡猾に他者を傷つけ、他者の人生も破壊するので、始末に悪いのです。
ヒトが幸せに生きるには、<自他肯定>でなければいけませんが、親の因果で<自他肯定>がイメージ的に解らない場合、実践的に勉強するしかありませんが「学ぶより慣れろ」です。
<自他肯定>の典型的な主人公にした映画が『若大将シリーズ』です。参考にされることをおすすめします。
若大将シリーズは、このキャンパスボックスが、ドラマ的に充実しています。後半(サーフ & スノー、アラウンド・ザ・ワールド)になると
歌が多く挿入され上映時間の制約からドラマが薄味になってきます。
等身大の自分からスタートする
では、執着を手放して、自由で豊かな<人生100〜200年時代>をエンドレスにワンダフルにするライフスキルの磨き方をお話します。
「自分は欠点の多い人間である」あるいは「なぜこんなにも苦しいのか」といった「気づき」からはじまり、原因がなにか、どこに考え違いがあるのかを気づいていくものです。
気づきがない人が修行しても何も起こらないと思います。
ストレスを低減して、本来の自分を力を発揮したい、人生100年時代をたくましく明るく元気なライフデザインをライフプランに反映していきたい思いとひとつになったたき、気づきは起こります。
瞑想はそのためのもので、完全でない自分が、いまここから離れて過去と未来に妄想している自分に気づいて、いまここの自分を受け入れていくもので、自分が自分を受け入れず閉じていては、気づきは進みません。
- 自分は欠点の多い人間であることに気づく
- 自分に苦があることに気づく
- 原因=結果に気づく
- ストレス低減の必要に気づく(正しい呼吸を身につける)
- 人生100年時代を生きるライフデザインをライフプランに反映する大切さに気づく
- 過去と未来のことに一日の半分を費やしている自分に気づく
- 自分を受け入れる大切さに気づく
- 真理に気づきたがっている自分に気づく
- 気づきは誰かから与えられるものではないことに気づく
欠点は、成長のシグナルです。
欠点が多いことを悲観しないでください。ポジティブにとらえて弱点が多い方が飛躍できると考えて、実践します。実践のポイントは使う言葉をポジティブな言葉に変えることです。最初はなんとなく馴染めなくても意識していると、自然に変化が起こってきます。使った方が良い言葉についてはこちらで別途ご案内します。
自分の人生に納得できるか。
多くのヒトが、妄想共同体の闇に落ちて、ヒトは自分の外側に幸せがあると思い込んでいます。
人も羨む美しい女性を探し求めることと、正しい自分を求めることとどちらが価値あると思いますか。美しい女性を手に入れても納得できるゴールにはなりません。
ゴールは自分の内側にしかないからです。
いくら探し回っても、あなたの外の世界に、あるのは妨げばかりで、あなたが求めるものはありません。
求めるゴールをライフプランで具体化します。やがてライフプランを見直したくなるかも知れませんが、その場合は変えてもOKです。気にせずに親しんで、具体的にフォローするようにします。
執着と愛情はなぜ見分けにくいのか
自分の「愛情」と勘違いした「執着」は、見極めが難しいものですが、明確なのは、相手の幸せを考えられないのは「執着」で、相手の幸せを第一に優先するのが「愛情」です。
人間、動物、昆虫などすべての生き物が私たちと同じで、やすらぎを願い、苦しみを避けたいと考えていてと、認識し、理解した時に慈悲の智慧が湧き上がります。慈悲は自然に自発的に湧き上がるものです。
愛情というとき、それは複雑になります。何か欠けたものを埋め合わせできる神経回路の錯覚があります。様々な依存症と同じように外的なモノや経験への強迫的な止めようのない依存に発展します。
「執着」を理解するのに、よく「海水」の例えが用いられます。
「海水」を飲めば飲むほど、喉の渇きはひどくなります。決して満足することはありません。海水と同じく執着によって条件づけられた幸せは決して満足することはありませんが、神経回路は、一時的な快と永続的な快を区別することができません。できないばかりか、外的な要素が埋め合わせをしてくれると思い込みを強化してしまうのです。
愛情も同じです。一度得た「快」の経験が自分をさらに幸せにしてくれる思い込みが、神経回路を強化してしまうのです。慈悲であったものが、愛情に衣替えをして、さらに執着に装いを替えても、いつどの段階で変わったのか、解らなくなってしまいます。はっきりしているのは、相手への慈しみ、思いやりが、ある段階から自分への愛情に変わっていることです。つまり自他の区別がつかなくなっているのです。
混乱の根本は「自分をもっと認めて欲しい」という自己承認の欲求が抑えられなくなるからです、その本音は「もっと愛されたい」が、安心を求めて「もっと支配したい」に代わることです。本音は「もっと支配したい」だけなのに、表現は「あなたなしでは生きていけない」になるので、本人が認識できないので、混乱は深まります。
本来なら「安心させたい」が慈悲の心ですが、重心が、相手から自分に移動しています。相手から自分に移動する段階で本音が露呈します。もともと相手を思いやる愛情があったのではないので、支配できると関心がなくなります。ただ依存するための「執着」だったのです。
本当に自分を信じていたら、自分を認めてもらおうとする必要はないものです。「もっと認めて欲しい」「もっと愛されたい」という思いだけが強くなると、「あなたなしでは生きていけない」と、悠然としていられなくなるので、そのためだけに嘘をつき出します。
暮らしであれ、仕事であれ、恋愛であれ、輝きが失せ、アートしなくなります。生まれながらに備わっている静かで慎ましく飾り気のない自己主張がなくなり、大袈裟な自己主張が目立つようになります。つまり、自分が自分を妨害するので『精進ー妨害=結果(資産)』の方程式が崩れます。
執着心が根強くあると、異性との交際でも、執着心の強い相手を選んでしまいます。相手も親の因果で苦しんでいる場合が多いものです。問題は双方が執着を好む傾向が強いということです。情熱的に思える恋愛もその実体は「執着」がないと物足りなく思えてしまうことです。つまり無意識に執着する交流を作り出す点です。『精進ー妨害=結果(資産)』の妨害になります。
暮らし方がそのままアートになる
本人には「努力」でも、他者には「執着」に映ります。執着でしかないものを「愛情」「努力」と言われて押し付けられる相手には迷惑でしかありません。
残念ながら大きな勘違いでしかありません。
「これでいいんだ。」と納得して信じられる人生をゴールにすることです。
暮らし方がそのままアートになるのがアートな暮らし方です。
子どもは成長とともに大人になれと言われます。それを受けて大人になる努力をします。
自然と子どものこころを否定しなければ大人になれません。もともとの子どものこころしかもっていなかった子どもは大人のこころ、親のこころが徐々に大きくなり、分別を覚えることで、子どものこころは小さくなります。
子どものこころは、無心です。意図も目的もなく、本能的・反射的・無意識で、計らいがないので計画するにもしようがなく、執着もなく、無限の動きができるアートなこころです。新たな行為や行動が創出されるこころです。
大人と子どもは対立的です。しかしアートな暮らし方ができるとは、本来対立するのをうまく調和します。大人のこころ、子どものこころ、親のこころの出し入れが自然体で上手にできるのです。子どものこころと大人のこころを分けずに使える全体心で、方程式を実践すれば暮らし方がそのままアートになります。
人生のゴールという大きな幹を理解することで、枝葉の真理を理解できます。生きる力とは、なにか、手に入れる方法についてご説明します。
「善因善果・悪因悪果」の因果の法則
方法のことを英語でメソッドといいますが、この語源は「道にそっていく」ことです。つまり方法はあり方(存在意義)に裏付けされたものだということです。
ところが、私たちは「あり方」を無視して、効率よく「やり方」だけを求めようとします。
「効率」重視になると数字の比較に走ります。数字による分析は大切ですが、存在意義を数字に埋もれさせてしまうやり方が危険なのです。デジタル式に物事を数字におきかえ、それ以上に大切なあり方が軽視され、引き換えに様々な錯覚を損得で判断するようになります。
仏作って魂入れずの状態に陥り生じる企業の不祥事はこの典型です。実はあり方を問わないスタイルは精進を値引きする、つまり存在意義を高めようとしない怠け者にとって楽なのです。<精進ー妨げ=結果>の方程式を無視、道にそっていないので、やがて、そのツケが回ってきます。
一方、結果だけを追い求めない「禅」は対照的です。
華やかな京都を離れ、深山幽谷な福井県の山奥に永平寺を開いた曹洞宗の開祖、道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。(正法眼蔵現成公案より抜粋)」といい、永平寺では今日もこの言葉がこだましています。
その意味は「様々な煩悩に縛られ苦しんでいる自分を見つめることから出発、その先に自分が包含されている宇宙を感得することが出来、さらには、自他の区別を超えて大宇宙と一つになる事ができる。」そういう意味ではないでしょうか。
禅では心を「しん」と読みます。意(考える)と識(認識する)が合成されて心になりますが、この心は本来の清らかな心である自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)のはずです。誰にでも仏性が備わっている。しかし、私たちは気づかないうちに煩悩に汚れた妄想のために真の心を見失っていることが多いのです。
では自性清浄心はどうしたらとり戻せるのでしょうか。
まず、信を起こし、努力し、正しいあり方で裏づけした正しい生き方を忘れず、自身を内省しながら、本当の智慧を得ることです。いきなりは無理でも、このような正しい法があることを知っておくのは大切です。
この五つの基本姿勢は五根五カともいわれ、五つの生きる力をあわせて真の心がやっと戻ります。
マルチステージをライフシフトする5つの力
マルチステージを自分で切り開きライフシフトするには、忙しい暮らしを余儀なくされます。
妄想共同体の闇に落ちて、ウロウロしている時間はありません。自分磨きも、スキルアップも、自己責任です。自己責任で暮らすリズム、ライフスキルを身につけるのが先決です。
- 信・・・・・信じる決心(=自己認識スキル)
- 精進・・・・その決心を持続する(=意思決定スキル)
- 念・・・・・教えに従って生きる(=目標設定スキル)
- 定・・・・・内省して心を深める(=ストレス対処スキル)
- 慧・・・・・真実をつかむ力(=コミュニケーションスキル)
よい行為はよい結果を、悪い行為は悪い結果をもたらすことを「善因善果・悪因悪果」といいます。これはあなたの時代、次世代、さらに次の世代を支配する因果の法則です。たとえあなたが次世代のことを意識しなくても、この法則は変わりません。
因があり、縁が作用して果を結ぶのは、野に咲く花の姿を見れば、わかります。エンドレスにワンダフルを具現化しるために、知らないうちについてしまった汚れ(業報/ごっぽう)を洗い落とすには、まず信を起こします。
この瞬間、自分を最良の人生に招待、スキルアップのおもてなしをするのです。
一度きりの人生なのに自分を最良の人生に招待してあげないのは寂しいですね。
一度きりの人生は「善因善果・悪因悪果」の二択です。どちらを選びますか。
なにが浪費かは、ヒトによって違いますが、自分で分類して、納得できるようにしましょう。
慣れてくると精度をあげるようにしましょう。
まとめ
人生100年時代、200年時代といっても、教育・仕事・引退の3つのステージの人生が当たり前でなくなった現代。2つ、3つのキャリアを持って、人生の選択肢を広げて、生涯を通して再創造を繰り返す、マルチステージを生きるライフシフトが当たり前の現代では100年は決して長くはありません。
「善因善果・悪因悪果」がすべてではないにしても、無駄な抵抗は取り払っておくのが賢明です。
大人のこころと子どものこころ、全体心で、アクティブな自分を大切にしましょう。執着心はマイナスの効果しかありません。