あなたも私も、愉しく、よりよい人生を過ごすために貴重なヒントを探ってみましょう。
「汝、自身を知れ(Temet Nosce)」
「汝、自身を知れ(Temet Nosce)」を見て思い出すのが、道元禅師(1200-1253)の主著といわれる『正法眼蔵(しょうぼうげんそう)』です。
『正法眼蔵」は、75篇の短い文書より構成されています。それらのなかでも、「現成公案」は、古来、道元の思想を最もよく表わすものとして、大切にされてきました。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。
万法に証せられるといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむるなり。 道元「正法眼蔵」「現成公案」
この言葉は、この「現成公案」からの引用ですが、仏道を修行してゆくうえで、重要な視点を示しています。
現代語に訳すと、次のようになります。
自己をならうというのは、自己を忘れることである。
自己を忘れるというのは、天地宇宙の一切のもののはたらきによって証り(さとり)がわが上に現れることである。
天地宇宙の一切のもののはたらきによって証(さとり)がわがうえに現れるというのは自他の身心をしてそっくり束縛から脱せしめることである。
仏陀がめざした「四諦」の解決
答えはイエスです。
仏陀が仏道を歩んだのは「四諦」の解決です。
四諦(四聖諦)とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦の4つの基本的な課題のことなので、仏道を習うのは、人生を習うと言っても過言ではないのです。
②集諦(じったい) – 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実
③滅諦(めったい) – 欲望を脱し無執着になり苦しみが消滅した涅槃の境地こそ理想と説く真理。
④道諦(どうたい) – 悟りに至るには八正道の実践という真実。
仮想世界とは、苦諦(くたい) 、集諦(じったい)にいる世界。
苦諦、集諦にいることさえ解らないのが、煩悩の世界にどっぷりつかった状態のこと。
仏陀は、苦諦、集諦から覚醒するために滅諦(めったい)道諦(どうたい)という真理を説きました。真理を日常生活に陥し込んで、暮らす大切さを説いたのです。
「覚り(悟り)」とは、遠い何処かにあるのではなく、自分の手元にあるということであり、日々の食事や掃除、仕事のなかにあることに気づくように親代わりとなって指導されたのです。仏道に生きるということが禅なのです。
いまを生きる私たちにとって、大事なのは、仏教でもキリスト教でもありません。
自分が主体となって、いま。ここ、この瞬間を愉しく自由に生きることです。
それが『マトリックス』のメッセージでもあるのです。
「マトリックス」で人生が変わった
自由に生きるとは、好き勝手ということではなく、「自律」して全宇宙を体験して生きることです。自律とは、自分で規範、ルールを定めて、遵守して暮らすことです。
『マトリックス』シリーズを観て、「人生が変わった」あるいは「変えなければいけない」と感じた人が少なくないのは、自分以外の価値観に囚われていることへの危機感を通じて、「仮想世界」への認識を深めたからだと思います。
映画と違ってドンパチするわけではありませんが、「仮想世界」の存在を感じたのは他者の価値観を生きている日常に、気づくからではないでしょうか。
仮想空間から、他者の価値観に生きる現実に戻すポイントは、煩悩とのつきあい方です。
そもそもプッダにはでき上がった形の「仏教」などありませんでした。
彼は、ただインドの大地で、自由に学び、自由に生きていただけで、そのプロセスで「目覚めた人」になりました。
自律することを楽しみ、自由に生きながら、日々の限想で自分を観察することで覚りを深め、自然や人々との出会いを通して、宇宙からのテレパシーを楽しみを体感しながら、一生を修行に投じた「学ぶ人」でした。学ぶことは究極のエンタメでした。
そんな彼の姿を見て、「自由だな」「面白そうだな」と惹かれた人たちが彼の周りに集まってきたことから、自然発生的にサンガ(僧伽・修行者の共同体)ができていったのです。
それは、仏陀(ブッダ)の学びを手本にして生きようとした人たちの集まりでした。
『マトリックス』って難解だけど面白そうだな。」と思った人々と同じノリでした。
仮想空間の原動力=煩悩
慈悲の邪魔をするのが、煩悩です。
煩悩は執着が動機となってどんどん強くなります。
「マトリックス」シリーズ第一作では、煩悩に取り込まれて、仲間を裏切るサイファーが際立っています。私たちもエラそうなことは言えません。
煩悩は、逃げようとすればするほど煩悩の砂地獄に陥るか、捨てようと捨てようと思えば絡め取られます。
実世界から、マインドフルネスから遠ざけて、無意識にる「マトリックス」に誘い込む仕組みに打ち克つには、三蔵法師がインドから持ち帰った経典「唯識」あるいは「心理学」に匹敵する理解が必要です。しかし、一般人には難解ですが、簡単に理解できる方法が「禅」です。
禅(禅宗)は仏道を習うトレーニングとして開発されました。
マインドフルネスは、仏陀が説いた「道諦(どうたい)」すなわち八正道のカリキュラムのひとつです。
仮想空間から抜け出るマインドフルネス
プッダの教えより、プッダの人生そのものを見れば、私たちはもっと自由に、なにより楽しく生きていいことがわかります。
もっとも重要なことは、言葉に依存せずに自分を信じたらいいのです。信じることでマインドフルネスな状態になれます。
マインドフルネスな状態とは、対象になりきることです。
食事中なら、食事になりきること。掃除中なら掃除になりきりこと。仕事中なら仕事になりきること。没頭した状態に自分があることが「マインドフルネス」です。瞑想することがマインドフルネスではありません。深く没頭した状態の食事なら食材そのもの、食材に関わる人々そのものと、マインドフルネスのなかで出会いなりきります。
- 禅とはなにか・・・なりきること
- 瞑想とはなにか・・・なりきるための行為。
- マインドフルネスとはなにか・・・なりきった状態。
ところが、普通に暮らしていると周囲の環境もそうだし、自身も言葉で考える癖から離れられないので、マインドフルネスな状態になれず、煩悩に苦しみ仮想世界に追いやられます。
汝、自身を知れ
汝、自身を知れとは「なりきること」です。
なりきるとは、自己をわすれることです。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せられるなり。
万法に証せられるといふは、
自己の身心および他己の身心をして脱落(とうらく)せしむるなり。 道元「正法眼蔵」「現成公案」
「無我」の状態です。
まとめ
「空」も同じです。
聴こえることが聴こえないことに触れています。
道元禅師は、瞑想によって、解脱したら仏陀を悟ることができると説きました。目に見える自分はひとりですが、宇宙の自分には、100人の自分、1000人の自分、一兆人の自分が・・・存在しています。