仕事、恋愛(結婚)、病気など悩みはありませんか?
その悩み、マインドフルネスが解決します。
人は無量無辺の縁起の世界に生きているので、誰かのなんかの縁で物事が生起し、その影響を受けて、やがて自分にも物事が生起します。自分には思い当たるふしがなくても揺らぎが起こり、ざわつきますね。
人生はその繰り返しですが、ひたすら自分のするべきことに邁進する強さを教えてくれるのが「仏教」だと思います。学校に行けばいろんな科目の授業を受けますが、生きるための学問は多くはありません。
めざすは私だけの黄金境エルドラド!
その悩み、マインドフルネスが解決します。
本当の世界と仮想世界
目に見える自分はひとりですが、宇宙の自分には、100人の自分、1000人の自分、一兆人の自分が・・・存在しています。
私たちはひとりひとりが、太古の昔の先祖からいのちを受け継いで生きています。
いまを生きるいのちの根源は、たったひとつの「種子」でした。
いのちは身体と魂(精神世界)でできています。
生きている期間は同じ空間にありますが、身体を失っても、精神は四次元から七次元で生き続けていると量子論は説いています。という説がありますが、見たことも、想像もできないので、これ以上の説明は控えます。
受け継いだ細胞は新しい身体となりますが、四次元から七次元にある精神は根本心といわれる「阿頼耶識(あらやしき)」と繋がり「阿頼耶識縁起」として生起します。
阿頼耶識は古から受け継いできた膨大な記憶の蔵です。「親の因果が子にたたり・・・」なんて言葉がありますが、親の出発点が、太古の昔まで遡ります。
現代を生きる私たちにはまったく記憶にない記憶が貯蔵されている阿頼耶識が縁となって生起しますが、自我執着心である末那識(まなしき)があれば、末那識と合体して生起します。生起はするけど、煩悩(自己執着心)に束縛されるので、仮想空間に留まり、あるがままに動けなくなります。
過去も未来も同じ空間にある
人は束縛から解放されようとしてあがきますが、あがけばあがくほど末那識に絡め取られます。意識できる「六識」は不調をきたします。大乗仏教・唯識派が説いたこのメカニズムは般若心経にまとめられました。
仏教が慈悲の大切さを説くのは、生きている精神を繋げるのに欠かせないからです。慈悲は憐れむ気持ちのように解釈されますが、むしろ「精励(せいれい)」です。「刻苦精励(こっくせいれい)」というように使いますが、その意味は「努めて励むこと。自らを苦しめるように努力をし、勉学や仕事に精を出すこと。」です。
気をつけたいのは、「苦しめるように」ではなく「愉快に」です。エンドレスにワンダフルな生き方をして、最後に「ああ、オモシロかった!」のひとことで締めくくる人生。それを可能にするのが「精励」つまり自分や大切な人への「慈悲」です。
ブッダのオモシロイ時間と愉快な仲間
煩悩まみれからの脱出を自然に実現するのが、仏陀が開いた原始仏教(初期仏教)です。
もっとも仏陀に宗教という認識はなく、ただただ楽しく生きるあり方をひとりで、あるいはブッダの話をオモシロイと思った参加者全身で模索しただけのようです。
プッダの教えも愉しいですが、プッダの人生そのものを見れば、王子として生まれ育ちながら全部捨てて自分が知りたいことに熱中する姿に、ブッダが愉快に生きていたことがわかります。
- 面白いとは、物事に心が明るみ楽しく、目の前がぱっとひらけて気持ちが晴ればれした状態
- 愉快とは、自分にとって嬉しいことが続いて、心が気持ちよいことを説明したい時に使います。人に「今日はオモシロイ時間を過ごしました。」というとバカバカしいことがあったというような意味になってしまいます。この場合は「愉しい時間を過ごしました」になるのではないでしょうか?
ブッダが難問を解いていくときに、感じたのは、どっちだったでしょう?
目の前がぱっとひらけて気持ちが晴れ晴れしたことでしょう。
気がつかなかったメカニズムに出会ってオモシロイと思ったのではないでしょうか。
ブッダの話をオモシロイと思った参加者には「今日は愉しい時間を過せましたか」と尋ねたのではないかと思います・
ブッダは、自分で考えて答えに到達、晴れ晴れしたと思います。
仏教(=哲学)はオモシロイのが本質です。
仏教を学ぶと、私たちはもっと自由に、なにより楽しく生きていいことがわかります。
もっとも重要なことは、言葉に依存せずに自分を信じたらいいのです。ほとんどの場合、すでに「阿頼耶識」が知っているからです。
マインドフルネスとは「なりきった状態」のこと。
信じることでマインドフルネスな状態になれます。
マインドフルネスな状態とは、対象になりきることです。
食事中なら、食事になりきること。掃除中なら掃除になりきりこと。仕事中なら仕事になりきること。没頭した状態に自分があることが「マインドフルネス」です。瞑想することがマインドフルネスではありません。深く没頭した状態の食事なら食材そのもの、食材に関わる人々そのものと、マインドフルネスのなかで出会い、そして、なりきります。
ところが、周囲の環境もそうだし、自身も言葉で考える癖から離れられないので、マインドフルネスな状態になれず、煩悩に苦しみ仮想世界に追いやられます。仮想空間に居ることに気づいた人々の戦いを描いた映画が「マトリックス」でしたね。私たちの世界では、仏教を学んで脱出する方法を説いたのがブッダでした。ところがブッダ亡き後に現れた大乗仏教の部派の数々は、「学ぶのは難しいから、私たちに任せなさい。あなたは拝むだけでよろしい」と説きました。部派のひとつである密教は空海によって日本にも伝えられました。
仏教以前にあったバラモン教との違い
仏教が哲学から宗教になっていったのは、仏陀が入滅された後、仏陀の教えを口伝することから経典にまとめるうちに、異論や組織の運営が絡んでのことでした。
そもそも、仏陀以前には、農村地帯では、太陽や風など自然神を崇拝するバラモン教が主たる宗教として存在、司祭階級のバラモン僧が祭祀を執り行っていました。儀式では神様に牛を捧げるので牛を差し出さなければならない農家には悩みでした。
ここに現れた仏教やジャイナ教が、既成の権威や価値に異を唱え、殺生、供犠、祭祀を批判しましたので「非正統派(ナースティカ)」と呼ばれました。
これに対しヴェーダ聖典(文書)の権威を尊重しバラモン教の価値観を唱える者は「正統派(アースティカ)」と認識されていました。
しかしブルジョアたちは、自分たちの考えに合う新しい思想を歓迎、都市部で急速に支持が広まり、バラモン教は地方に追いやられます。階層の高いバラモン僧が寄附を求めに来ても「我が家は仏教徒です」「ジャイナ教徒です」と言い返せるようになったのです。
しかし仏教は宗教の体裁を整えていたわけでなく、「四諦」の解決を追求する難易度の高い学習の必要がありました。
そこでバラモン教に代わって、教義を簡素化したヒンドゥー教が登場します。
ヒンドゥー教の登場
ヒンドゥー教の特徴は、神様たちの像を造って「この神様に拝むだけで、苦から解放される」というものです。この安直さが受けて農村など地方では人気を獲得したのです。
現在、仏教が生まれたインドでは、上座部仏教が頑張っています、
しかし、仏教徒は全人口の1割に満たず、その理由はイスラーム人の弾圧を受けてイスラーム教が普及し、仏教は滅亡したからです。
いまを生きる私たちにとって、大事なのは、仏教でもキリスト教でもありません。
いま、ここ、この瞬間を子どものように愉しく自由に生きることです。
自由に生きるとは、好き勝手ということではなく、「自律」して全宇宙を体験して生きることです。子どもとの違いは自律できる点です。自律とは、自分でルールを定め、自ら律することです。全宇宙を自律しながら体験するのです。
誰も出られない、誰も入れない制約のあるひとりひとりの「一人一宇宙」のネットワークに慈悲でつながって、大宇宙に入り、根源的なもともとのいのちを生きることです。もし自律で着ない状態でネットワークに繋がるとネットワークは壊れ、自分は締め出されてしまうのが自然の摂理です。
すなわち刻苦精励を常として愉しみ、人々と連帯して、古代から受け継いできたいのちをマインドフルネスに生きることが大宇宙を愉しむコツであり、エンドレスにワンダフルに生きるテコになのです。
遠い祖先から受け継いだいのちを生きている
もう少し具体的にお話ししましょう。
昔昔、大昔。すべての生物はひとつの種子でした。
単細胞生物から多細胞生物へと変遷を重ねて現在の人類になりました。
遠い祖先から受け継いできた根源的なもともとのいのちのひたすらの願いを叶えるのがあなたの仕事なのです。
なので、煩悩にいのちを注ぐのは意思に反しています。いのちを自由にしてあげましょう。
これが煩悩からの解放であり、炊事、洗濯、掃除、仕事など暮らしにあります、
仏教徒の割合
仏教が普及している主要な国の総人口。総人口比は上記のようになっています。
イメージと違ってインドの少なさは驚きですね。
先に述べたように、いまを生きる私たちにとって、大事なのは、仏教でもキリスト教でもありません。いま、ここ、この瞬間を愉しく自由に生きるために日常があります。
日常の暮らしに学ぶ
“禅(ZEN))”には、「坐って半畳、寝て一畳」という言葉があります。自分のスペースはこれで十分、つまり寝るスペースがあれば良い、ミニマルライフ(minimal life)で事足りるという考えです。「暮らしの質は最大限にする上で、モノは最小限にする」というライフスタイル。
- 少ない物で生活出来る
- 良い物だけを厳選できる
- いつも気持ちが良い
- 面倒臭いが最高の快楽だと実感できる
- 継続すればシステム思考に気づく
- 達成感でドーパミンが出る
これだけのメリットがあるのに、少ないもので贅沢に暮らすことができない、あるいはしないのは、目先の便利さが簡単に入手できてしまうからです。
つまり自由の価値を誤解している、誤解の本質は自分をないがしろにしているからです。
実は投げやりな暮らしを自由と誤解しているのは、主体性を得体の知れない何か(たとえば暮らしの本質とは無関係な情報提供者)に譲っているからです。「精励刻苦」は、自分への慈悲です。
精励の実践は、未来のよきことに向かっての種まき。「因果」の原因を創り続けていけば、自分が死んだ後でも、その種から芽(結果)が出てきます。
エンドレスにワンダフル、きっと社会はよくなるという確信が、執着心から解放してくれるのです。確信が持てないとき、人は執着してしまいます。
確信を得る方法は特別なことではなく、朝・昼・夜の日常を愉しむことです。
まとめ
人間は管(チューブ)の集積であり、バッグも管であり、家も管の集積です。
管の中には、できるだけコンパクトに「あるべきものが、あるべきところに、あるべきようにして、ある。」のが理想です。朝・昼・夜もそれぞれがチューブだと考えてみてはどうでしょう。
どうすれば、そうなるのか?
いのちを自由にしてあげましょう。
これが煩悩からの解放であり、いのちの学びは、炊事、洗濯、掃除、仕事など暮らしにあり、ミニマムライフにあります。そこで断捨離と思いがちですが、それも執着の変形であることに気をつけましょう。
心のマンダラを整えれば、自然にマインドフルネスになり、断捨離はマインドフルネスが続くほど、勝手に進みます。不要な物欲がなくなり、自分の必要がわかるようになるからです。